キャンバス

 高校生の妹から聞いた話である。

 四月の一学期。芸術の授業を音楽と美術、どちらかから選択することになり、妹は美術を選んだ。

 授業では簡単なデッサンだったり、ちょっとした美術史だったりをやった。どこの学校でもやるような、一般的なものだ。

 それからしばらく。七月になり、文化祭で展示する用の絵を描くことになった。デッサンだとか、触るていどにやった油彩画の集大成みたいなものである。

 教師が提示した作品のテーマは「図鑑」だった。図書室から図鑑を借り、その中で気に入った項目をモチーフに絵を描きなさい、とのことである。

 妹は動物図鑑を借りて、猫を描くことにした。他の生徒も虫、爬虫類、鉱物、天体、食べ物、植物、武器、人体など、各々図鑑を選んで描いていた。図鑑には限りがあるため、一つの図鑑を仲のいいもの同士数人で共有している生徒もいたらしい。

 図鑑を見て、コピー用紙に下描きをしてからキャンバスを張って下描きをしていく。準備をしている最中、美術部とおぼしき女生徒二人が不安げに話しているのが聞こえた。

 ――Nくん、あの棚から道具出したよ。大丈夫かな。

 妹は気になって、二人に声をかけた。話によると、そのNくんという男子生徒が道具を取り出した美術準備室の棚は、曰く付きだというのだ。

 美術準備室に入って左側にある棚の上から六番目の段にある道具を使うと、よくないことが起こる。美術部で代々受け継がれてきた噂。そういえば学校の七不思議にそんなのがあったな、と妹とから話を伝え聞いたとき思った。私と兄が卒業した高校に、妹も通っているのだ。

 しかしあくまで噂は噂で、製作中もとくに何もなかったらしい。Nくんが事故にあったりだとか、病気になっただとか、暗くなっていっただとか、そういったことはなく、週二時間の美術の時間は過ぎていった。

 夏休みに入る。できに満足できていない美術を受講している生徒や、美術部の生徒は夏休み期間中もその課題に取り組んでいったらしいが、妹やNくんは授業以外に作品に手を出すことはなかった。普通に遊んだり、夏休みの宿題に勤しんでいた。

 だから、夏休み一発目の美術の授業は大騒ぎになったらしい。美術準備室に安置していたNくんの作品周りは、大変なことになっていた。

 Nくんは人体の図鑑を参考にしながら、作品を描いていた。妊婦の断面図のような絵だ。その女性の腹部、羊水で満たされているであろう部分から、ドロドロとした半透明な液体が滴っている。美術準備室には生臭い空気が充満していた。

 ――昨日まではなんともなかったのに。

 そう美術部の女生徒が呟く。妹を含め他の生徒はざわざわと落ち着きがない。ただ一人、Nくんだけが絵をじっと見ている。

 教師が何人か駆けつけ、片づけをしたり生徒を落ち着けたりして、なんとかことなきを得た。原因を突き止めようとしたが、謎のまま。誰かがイタズラをしたんだろうということになったが、犯人は不明。学年では目立つタイプの生徒たちが犯人探しに躍起になったが、見つからなかった。Nくんは目立たないタイプで、かつ誰かに恨まれるような生徒ではなかった。誰とでもうまくやっていた。こんなイタズラをされる理由がなかった。

 最初のうちはこの話題でもちきりだったが、体育祭、文化祭の準備などで忙しくなっていくにつれて沈静化していく。

 そして、文化祭当日には話題にも上がらなくなったのだそうだ。


 兄と一緒に母校であり、妹の通う高校の文化祭へと足を運んだ。

 妹のクラスの出し物に行くと、受付業務を担当していた彼女は兄を熱烈に歓迎した。憎いことに妹は私より兄に懐いているのだ。

 出し物はお化け屋敷だった。高校生らしいクオリティだったが、生来ビビりな私は盛大にビビり散らし、兄を苦笑させた。

 そのあと、美術の授業で描いたという絵を見に行った。美術室は美術部の展示をしていたから、それらは美術室近くの別の教室に飾られていた。

 妹は猫を描いていた。スコティッシュフォールド、ミヌエット、アメリカンショートヘア、スフィンクス、ロシアンブルー、アビシニアン、イリオモテヤマネコ、マヌルネコ……実に様々な猫たちがびっしりと描かれている。少し欲張りすぎではないかと思う。

 妹の絵の隣には、Nくんの絵らしい女性の断面図があった。彼女の肚の胎児は人間なのか違う生き物なのかわからなかった。背中と思しき部位には大きな瘤があった。

 ぼんやりと立ち止まり、その絵を注視していた。じんわりと汗のように液体が絵から湧き出しているような錯覚に陥る。たらー、とキャンバスから流れて、イーゼルの脚の分の高さから、ぴちょん、と滴った、ような気がした。

 兄が私を呼ぶ。返事をして私は兄のもとへ行くために、絵に対して背中を向けた。空気が少し、生臭いような気がした。

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