17.盆前の来訪者


さらにいくつかの日が過ぎていった。

胸の奥に沈殿した疑問は、いまだ霞のように消えず、気づけば息苦しさに変わりつつある。けれども、結局は誰にも問えないまま時間だけが流れた。


彩芽さんの笑顔に救われる瞬間が幾度もあった。彼女がふと見せる優しい仕草や、控えめでいながら確かに支えてくれる眼差しに、私は何度も助けられてきた。だが同時に、その微笑みに縋るたび、胸裏には小さな棘のようなもやもやが残っていく。口にすれば砕けてしまいそうで、ただ心の中に沈めるしかなかった。


──そんなある日の昼下がりのことだった。

旦那様が外出して屋敷に不在の折、思いがけない客人が門をくぐってきた。


現れたのは、分家筋にあたる年配の夫婦だった。予告もなく唐突に訪れたその姿を目にしたとき、私は思わず立ち尽くした。

普通なら先触れを出すものだろうに、と胸がざわつく。だが当主の妻として応対せねばならない。私は作り物めいた笑顔を口元に貼りつけ、応接間へと案内した。


「もうすぐ盆の集まりに出席できないから、せめて先にご挨拶をと思いまして」

夫婦の口からそう理由を聞かされたとき、心の中では「それなら事前に一言くらいあってもいいのに」と呟かずにはいられなかった。

けれど声に出すことなどできない。


応接間に腰を下ろすと、妻のほうは驚くほどよく喋った。声も表情も明るく、にこやかに見える。だがその言葉の端々には、小骨のような引っかかりが混じっていた。

対して夫のほうはほとんど口を開かず、壁際の置物のように沈黙している。


「まあまあ、なんて可愛らしい奥様でしょう」

一見褒め言葉のような言葉を投げかけられたのに、胸の奥にざらりとした違和感が残る。


「──結婚式に呼ばれなかったから、どんな方かと思っていたのよ」

続く言葉に、苦笑いすら引きつりそうになる。


そんなとき、すぐそばで控えていた彩芽さんが、すっと声を差し挟んでくれた。

「旦那様のご希望で、ごく限られた人数のみでの式でしたので」

その穏やかな口調は場の空気を柔らげ、私の緊張も少しだけ解いてくれた。


しかし相手は引き下がらない。

「でもね、結婚式というのは親戚やご縁ある方々にお披露目するものよ。せめて披露宴だけでもきちんと開いて紹介するべきじゃなくて? それを進言するのは、奥様のお役目でしょう?」


胸の奥がぐらりと揺れた。

喉元まで言葉がこみ上げてくる。けれど笑顔を崩せば相手の思うつぼだと本能が告げていた。私は唇の裏を噛み、指先に力を込め、ただ黙って微笑むしかなかった。


やがておばさんは湯飲みを差し出した。

「お茶のおかわりをいただけるかしら。……でも彩芽さんが淹れてくださると嬉しいわ。貴女のお茶は格別だから」


わざわざ彼女の名を出して頼む。意図は明らかだった。

彩芽は一瞬だけ私に視線を向け、心配そうに眉を寄せた。それでも静かに頭を下げて部屋を後にする。その背が見えなくなった瞬間、応接間の空気はさらに冷たく、居心地の悪いものへと変わった。


「実はね、うちの娘を蓮様に……と考えていたことがあるのよ」

おばさんはさらりと口にした。

「今年三十になる娘となら、年の差もちょうどよかったのに。まあ、蓮様が若い子がお好きなら仕方ないけれど」


──三十の娘って、この世界じゃ行き遅れだろ。

心の奥で悪態をついた瞬間、はっとした。

──けど私、令和で死んだとき三十五の独身だったじゃん。

特大ブーメランが頭上から直撃し、自分で自分を刺した気分になる。


そんな私の動揺などお構いなしに、おばさんはさらに話題を畳みかけてくる。

「本当に彩芽さんは優秀よね。お茶を入れるのもとてもお上手だし、今まで三人もの奥様がいらしたけど、結局は彩芽さんが妻の役目を果たしていた。むしろ歴代の奥様方より、よほど奥様らしかったくらい」


彩芽の名をわざと強調し、過去の奥様たちを引き合いに出す。その意図はあまりにも露骨で、私を貶めようとしているのは明らかだった。胸の奥のざわつきが、次第に熱を帯びて膨らんでいく。


さらに追い討ちをかけるように、おばさんは声をひそめて囁いた。

「でも所詮、父親の分からない元は芸者の娘なんでしょう? いくら優秀でも血筋がねえ……。あの子も蓮様に色目でも使っているんじゃないのかしら?」


──彩芽さんを、侮辱した?


胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。

だが次に口を突いて出た声は、怒鳴りではなく押し殺した低い響きだった。


「……いい加減にしなさいよ、おばさん」


静かすぎて最初は聞き間違いだと思ったらしい。

だが私の視線と口元を見て、その言葉が確かに本物だったと理解した瞬間、おばさんの表情は凍りついた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る