18.静かなる怒り
「……いい加減にしなさいよ、おばさん」
ぽつりと落としたその一言に、応接間の空気がぴたりと止まった。
おばさんの笑みは固まり、手にしていた湯飲みが小さく震える。まさか反論されるとは夢にも思わなかったのだろう。
「な、なにを……」
ようやく声を絞り出したものの、その調子には先ほどまでの余裕はなかった。
私は背筋を正したまま、淡々と口を開いた。
「私が至らないのは分かっています。この家のこともまだ十分にこなせず、妻として未熟だと見られても仕方ないでしょう」
そこで一度息を整え、視線をおばさんの目に真っ直ぐ合わせる。
「でも──彩芽さんは違います」
おばさんがわずかに眉をひそめた。
私は言葉を重ねる。
「母親がどうであろうと、彩芽さん自身には何の関係もありません。彼女がこの屋敷でどれほど誠実に働いてきたか、ご存じのはずでしょう。
それを血筋だとか、色目だとか……そんなふうに貶めるのは、あまりにも筋違いです」
声を荒げたわけではない。押し殺した静かな怒りが、言葉にじわりと滲む。
自分のことならまだ耐えられる。けれど、彼女を侮辱する言葉だけは、どうしても見過ごせなかった。
おばさんは口を開きかけては閉じ、何度か瞬きをした。応接間の空気は重く、沈黙の刃が突き刺さるように張りつめる。
「……あ、あなたねえ」
おばさんは引きつった笑みを浮かべ、声をわずかに震わせながら言った。
「私は、ただ心配して……ええ、そうよ。分家として、家のことを案じて申し上げただけなのに……っ!」
言い訳めいた調子が耳に刺さる。さっきまでの余裕や勝ち誇った響きは、もうどこにもなかった。
「心配なさるのは結構です」
私は静かに続ける。
「でも、その言葉が誰かを傷つけることもある……一度、よく考えてから口にしていただきたいものです」
隣に座る夫は居心地悪そうに視線を彷徨わせ、落ち着きなく膝の上で手を動かすばかりだった。
おばさんはぱちぱちと瞬きを繰り返し、扇子を開いたり閉じたりして落ち着かない様子をさらけ出す。
その時だった。
──パンッ!
乱暴に襖が弾けるように開け放たれた。
突然の大きな音に、私もおばさんも思わず身を震わせる。
「な、なにごと……」
無作法な開け方に文句を言おうと環から目線を移したおばさんは、その先を見て言葉を失った。
開いた襖の向こうに立っていたのは、そこにいるはずのない人物──
息を呑み、思わず声が漏れる。
「……旦那さまっ!」
蓮だった。
その名を呼んだ自分の声の震えで、どれほど緊張していたのかを初めて思い知る。
蓮は襖を押し開けたまま一歩進み、ゆっくりと視線を巡らせた。
その琥珀色の目に射抜かれた瞬間、空気が肌を刺すように張りつめ、呼吸すら重たくなる。
「──随分と賑やかな声が聞こえると思えば」
低く落ちた声に、抑え込まれた怒気がにじむ。その響きだけで背筋に冷たいものが走った。
おばさんは慌てて立ち上がろうとしたが、腰が抜けたように中途半端な姿勢で固まってしまう。
「れ、蓮様……い、いらしてたのですね。あの、これは、その……」
「……私は留守にしていたはずだが?」
蓮の言葉は低く、乾いた音を持っていた。
「留守を狙って、好き勝手なことを言いに来たのか」
おばさんの顔色がみるみる青ざめていく。
「ち、違います! 決してそのような──」
必死に作り笑いを浮かべながら取り繕う。
「ほんの……親戚として心配して申し上げていただけで。蓮様のお耳に届くほどのことでは……」
「……心配?」
蓮はわずかに眉を動かし、琥珀色の瞳が鋭くおばさんを射抜く。
気まずそうに蓮から視線を逸らしたおばさんは、私を捕らえ、唇を僅かに歪めた。
「蓮様……本当にこのような方が奥様でよろしいのですか?」
「……何?」
「奥様は私にこう言ったのです。“いい加減にしろ”と……それに“おばさん”とも。こんな口を利く奥様では、蓮様のお立場に相応しくないのでは?」
蓮は黙って見下ろしていた。
その沈黙に耐えきれなくなったのか、おばさんは慌てて続ける。
「ですから……また離縁されたほうがよろしいのでは、と。分家としては……」
応接間の空気が凍りつく。
蓮は一歩踏み込み、影が落ちるほど近くからおばさんを見下ろした。
「……ほう」
おばさんの方がビクリと揺れる。
「分家が、本家の婚姻に口を挟むか」
その声音は怒鳴り声ではなかった。
むしろ驚くほど低く、静かで──だからこそ、逃げ場のない圧があった。
おばさんは蒼白になり、唇を震わせながら、言葉を失っていった。
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