16.寄り添う影


あれからひと月が過ぎた。


彩芽さんは本当に、言葉通り私を支えてくれるようになった。

朝の身支度から、屋敷のしきたり、神宮寺家の妻としての作法──多くの場面で助けてくれた。


最初は恐縮してばかりだった私も、次第に自然と彩芽さんを頼るようになっていた。

食事の場で戸惑えばそっと助け舟を出してくれ、慣れない客人とのやり取りも影で支えてくれる。


「環様、こちらの文箱は旦那様へのご返答用です。お名前を添えて封をしてしまえば、あとは私が手配いたしますね」


柔らかな声に導かれるまま筆を取る。

文字が震えないようにと深呼吸をして、なんとか署名を終えると、彩芽さんは嬉しそうに微笑んでくれた。


「とても綺麗に書けていますわ。旦那様もお喜びになります」


そんなふうに言われると、思わず頬が熱くなる。

蓮様に喜んでもらえるのはもちろん嬉しい。

けれど、それと同じくらいに──彩芽さんに褒められるのが不思議と心地よかった。


──でも。


ふとしたとき、胸の奥で小さな疑問が燻る。

どうして彩芽さんは、こんなにも私に親切にしてくれるのだろう。

ただの「気遣い」だけでは説明できないような、深い思いやりが、彼女の言葉や仕草の端々に滲んでいる。


私はすっかり彩芽さんに懐いてしまった。

けれど同時に、その理由を知りたい気持ちが、日に日に強くなっていくのだった。


 ◆


──そんなある日のこと。


「──あら」


先ほど「お茶を入れ替えてきます」と言って部屋を出ていった彩芽。

けれど机の上には、ひとつ湯呑みが残されていた。


(忘れ物……?)


私はそっとそれを手に取る。


(彩芽さんってしっかりしてるのに、たまに抜けてるところがあるのよね)

(でも、そんなところがまたかわいい)


そんなことを思い、くすりと笑いながら彩芽を追って廊下へ出た。

昼下がりの廊下はしんと静まり返り、障子越しの光が淡く床を照らしている。

足音を忍ばせながら進むと、角の向こうに彩芽さんの後ろ姿が見えた。


声をかけようと口を開いた──その瞬間。


「彩芽さん」


不意に、別の声が廊下に響いた。

私ではない。低く落ち着いた、けれどどこか鋭い響きを帯びた男性の声。


思わず足が止まる。

彩芽は声の方へ顔を向け、「あら、山本さん」と笑顔を浮かべた。


角から現れたのは、執事の山本。


二人は私に気付いていない。

静かな廊下に、盆の器が小さく触れ合う澄んだ音が響いた。


山本は彩芽の手元に目を落とし、ほんのわずかに目を細める。


「……本当に、奥様のサポートを献身的にされているんですね」


声音は静かだった。だがその奥に、冷ややかな響きが潜んでいる。


彩芽は表情を崩さず、柔らかな微笑を返した。


「ええ、環様のお役に立てること。それが何よりですから」


落ち着いた声音。けれど揺るぎはない。


山本は一拍置き、少し語気を強める。


「どうして、貴女は──そんなふうに奥様に親切にできるのですか?」


「どうしてって……使用人が奥様を支えるのは、ごく当たり前のことでございましょう」


にこやかな笑顔はそのまま。

けれど私の鼓動は速まり、喉が渇いて息が苦しい。


「彩芽さんは……旦那様のことを大切に思われてますよね。そして旦那様も……そんな彩芽さんだけに心を許されておられる」


体の芯が凍りつくようだった。

手の中の湯呑みがじんわり汗で滑りそうになる。


──そうだ。

私が最初に彩芽さんに抱いていた感情は「嫉妬」だった。


離れの縁側で寄り添っていた、旦那様と彩芽さん。

あの日の光景が鮮やかに甦る。

縁側に射し込む午後の光までが二人を包み込み、祝福しているようにさえ見えた。

主と使用人の距離ではなく、もっと近しく、もっと親密なものに思えた。


けれど……。

私の前にいる時の二人からは、そうした素振りは一切見られない。

古くからの付き合いの親しさはあるものの、むしろ距離を置いているようにさえ見える。


──じゃあ、どうして。

どうして、あのときはあんなふうに寄り添っていたの?

どうして、隠すように振る舞っているの?


胸の奥に冷たい霧が流れ込み、思考がじわじわと曇っていく。

足は床に縫い付けられたように動かない。


山本の声が、その霧をさらに濃くした。


「私ども使用人は皆、見てきました。……奥様が代わっても、旦那様の隣に立ち続けておられたのは、彩芽さん……あなただけだった」


ぐっと唇を噛む。

聞きたくないのに、耳は抗えない。


そして──山本の口から、濁された問いが落ちる。


「……旦那様にとって、本当の伴侶は誰なのか、と」


廊下の空気が張りつめる。

私の胃の奥が冷たく沈み、手の湯呑みが危うく滑り落ちそうになった。


けれど彩芽は、にこやかな微笑を崩さない。

そして、はっきりと、しかし穏やかに口を開いた。


「私は旦那様を──大切に思っております」


短い沈黙。胸の奥でざわめきが大きく広がる。

けれど、彩芽の声は続いた。


「ですが私は、あくまでもお傍でお支えする者。……蓮様の伴侶ではございません。そして奥様は──環様です」


自分の名が告げられた瞬間、胸が熱を帯びる。

黒い霧がほんの少しだけ晴れていく。


山本はしばし沈黙し、その瞳を伏せた。

納得なのか、諦めなのか、私には分からない。


「……なるほど。彩芽さんがそう仰るのなら、私から申し上げることはありません」


そう言い、一礼して廊下を去っていった。


残されたのは、彩芽の微笑みと──まだ拭えない不安だけ。


彩芽は私に気付いていない。

その横顔を見ながら、私は心の奥で問いかけずにはいられなかった。


(どうして……。どうして、そんなに迷いなく私を立ててくれるの? 本当に、それだけ……?)

(大切って──どういう意味?)


薄れかけた不安は、再び静かに膨らみ始めていた。



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