第4話 七年目の朝の瓶
七年目の朝は、特別に早かったわけでも、光が劇的に違ったわけでもなかった。ケトルの口から白い糸が立ちのぼり、カーテンは風の通り道でいつもどおりにふくらんだ。青い皿は、中央よりほんの少しだけ中央寄りに置く。金の線は、朝の光を受けて細い川みたいに流れた。わたしたちは顔を見合わせて、言葉より先に笑い皺の数で挨拶をした。それから、冷蔵庫の横から瓶を持ってきた。「七年目に開封」と書かれたラベルは、薄く色褪せているけれど、書き出しの勢いはそのまま残っていた。
瓶の口をひねる音は、新しい「今日の音」になった。コトリ、という小さな解放。紙の角が互いにこすれる乾いたさざ波。指を入れると、七年分の角が頬に触れて、頬の内側にひやりとした線を描く。わたしたちは、青い皿のまわりに紙を広げた。最初の一枚には、やわらかい字で「おかえりは合図」とあった。ふたりで何度も練習した、玄関の鈴とキッチンの声の往復。別の一枚には、「青い皿の音、今日もよかった」。さらに、「故障もはじまりの挿話」「エピグラフは湯気」——あの日のコインランドリーがいっせいに部屋に戻ってくる。
紙をほどくたび、時間の匂いが立つ。玉ねぎのスープの日は紙にほんのり染みがあって、停電の夜の紙は折り目がずれていた。「へんてこ一等賞」「こたつの交通ルール」「掃除の二段構え」「体感気温メーター:笑顔二つ」。笑って、うなずいて、ときどき黙る。黙るのは、七年間のうちに覚えた一番やさしい返事だ。あなたは「海の湯気」と書かれた小さな紙を見つけて、指でそっと撫でた。海の近くの朝、紙袋のパン、波の大きな閉じる音。わたしたちは、同じ景色を別々の言葉で呼び、別々の言葉を同じ場所に置いてきたのだと思った。
瓶の底に近づくと、紙の色が少しだけ濃くなった。「猫の鳴らす風鈴」「レモンの爪」「金の線、ここを通った」。指先に金の線の感覚がよみがえる。欠けは、忘れないための光。わたしたちは、あの教室の漆の匂いまで思い出した。最後の数枚は、ほとんど昨日の気配をしていた。「春の声」「ソファを見送った」「またどうぞ」。客人の猫が来なくなった夜に貼った紙。滲んだ「どうぞ」の文字は、手すりの上の雨のしるしと同じ形をしていた。
読み終えた紙は、もうひとつの瓶——「もういちど読む」に折り直して入れる。折り直すと、角がさらに丸くなって、紙は鳥の骨みたいに軽くなる。瓶が二つ、青い皿の隣で並ぶ。空のままの瓶がひとつ。ラベルには、まだ何も書かれていない。あなたがペンを持って「次の七年に開封」と書きかけて、少しだけ迷って手を止めた。「十四年、と書こうか」とあなた。「なにも書かないで、瓶の口を見ていようか」とわたし。わたしたちは結局、小さく「また」とだけ書いた。具体の手前の言葉は、未来にやさしい。
朝の湯気は、今日も約束どおりに立ちのぼった。あなたは目を細めて、湯気の中に新しい形を探す。その横顔に、七年分の癖が溶けている。わたしは青い皿の金の線の上に、レモンの薄い輪切りを半月だけ置いた。去年の実の、最後の一片。金と黄が重なって、小さな太陽ができる。皿の音は、ほんの少し澄んで鳴った。音の地図の隅に「瓶の口」と「七年の音」と書き足す。地図は延長された紙ごと、壁から少しはみだしている。はみだすのは、うれしい。
昼前、ベランダのレモンの根元に、小さな穴を掘った。紙を埋めるためではなく、空の瓶に砂の行き先を告げるための穴だ。海に行こう、とあなたが言う。「砂、入れよう」とわたしが重ねる。「湯気は入るかな」とあなた。「入らないけど、書こう」とわたし。入らないものの名前をラベルに書くと、なぜか入った気がする。七年前から続く、わたしたちのやり方。
午後のまどろみの時間、玄関の鈴が、誰も触っていないのにちりんと鳴った。風かな、と思った瞬間、影がスルリと差し込んできた。客人だった。しばらく見なかった灰と白の混じった毛並み。目は相変わらず静かで、鳴かない。あなたはゆっくりとしゃがんで、手を床に置いただけにした。猫は部屋の空気の匂いを一度吸ってから、すっと近づいて、風鈴の真下に座った。風が通り、風鈴がひと鳴りする。鈴も答える。二つの鈴が重なる音は、一年前の記念日の締めの音と同じで、少しだけ深かった。猫はやがて、青い皿のほうを見て、金の線のあたりで視線をとめた。欠けた場所を覚えているみたいに。わたしたちは、互いに目を合わせて、小さくうなずいた。「いらっしゃい」と言う代わりに、皿の隣に小さな毛糸の丸を置いた。
夕方、風が変わり、窓の外の葉の裏側が見えた。七年分の夕方は、どれも少しずつ違って、でもどれも「閉じる音」を探す視線だけは同じだ。今日は何にしよう、とあなたが訊く。「瓶の口の音に、海の音を足して」とわたし。あなたは笑って、マフラーをとった。「じゃあ、明日、海へ」。わたしたちは、青い皿の金の線に指を当てて、「ここを通った」ともう一度だけ報告してから、台所の電気を一緒に消した。暗闇の中で、手を探す。七年前と同じように、見つかった瞬間、小さな鈴が心の奥で鳴る。けれど今日は、その音に、猫の喉の低いゴロゴロが重なった。音の地図の余白が、またひとつ埋まる。
翌朝、海に着くと、風はまだ少し冷たかった。波は相変わらず、形を持たないままに押しては引いた。わたしたちは、ビンの口より少し大きい貝殻を見つけて、笑った。砂をひと握り、瓶に入れる。ラベルの下に、小さく「湯気」と書き足す。入らないものの名前が、砂の上に影のように座った。波の音を「大きな閉じる音」にして、道の途中でパン屋に寄る。「春の声」は、もうすっかりこの町の朝に馴染んでいた。青い皿をタオルに包んで連れ出さなかった代わりに、帰ってから中央に置く場所だけを空けておいた。
帰宅の鈴が鳴り、風鈴が答え、猫が一度だけ瞬きをした。青い皿の真ん中にパンを置くと、金の線のところで澄んだ音がした。わたしたちは、瓶に砂が入った分だけ軽くなった気持ちを分け合うみたいに、パンを半分こした。半分こという行為の真ん中に、全部がこぼれないようにする工夫は七年前と変わらない。変わらないことの中に、変わったものがいくつも息をしている。猫の爪が床で小さく鳴る音、レモンの葉が新しく開くときの薄い緑の気配、鏡の曇りが引くのを待つ背筋の伸び。わたしたちは、それらを紙に書く代わりに、音の地図と色の辞書と、冷蔵庫の端の空白に少しずつ足していく。
夜、わたしたちは新しい空の瓶に、最初の一枚を入れた。紙には「今日のよかった三つ」と書いて、ひとつ目に「瓶の口」、二つ目に「海の砂」、三つ目に「猫の喉」。折って、入れる。瓶の口の縁に、指が一瞬だけ迷って、すぐに慣れた。迷いの少なさは、器用さの証拠ではなく、信じる場所をよく知っている印だ。七年かけて覚えた位置に、あらたに「また」というしるしを置く。わたしたちは、未来の仕舞い方を前もって考える癖を、未来の始め方にそのままつなげた。
ベッドに横になって、天井の小さな点々の渦を見る。指を伸ばして、届かない距離に指を泳がせる。「触れなくても、願いは叶うかな」と七年前と同じことを言ってみる。あなたは少しだけ変えた返事をする。「触れようとする分、近づく。近づいた分、もう叶ってる」。わたしたちは、近づく練習を続けている。ものの位置に、声の温度に、歩幅に、湯気の高さに、そして瓶の口の音に。練習はすでに本番で、本番はずっと優しかった。
そしてまた、朝が来る。ケトルの口から白い糸が立ちのぼり、青い皿が光を受けて深さを増す。風鈴はまばらに、鈴は確かに。レモンの葉は光を跳ね返し、カーテンは裾の縫い目で小さく陰る。猫は窓辺で目を細め、瓶はテーブルの端で静かに待つ。端にいるものは、落ちないように気をつける。気をつけることが、愛することの具体だ。七年分の朝も、これからの七年分の朝も、湯気は同じ高さではないかもしれない。でも、同じ方向を見ている限り、湯気の白さはわたしたちの合図になる。青い皿の金の線を指でなぞるふりをして、わたしたちはもう一度だけ、小さく心の中で言う。「ここを通った」。それから、今日の音を聞く準備をする。瓶の口の小さな解放を、またいつか遠い朝に重ねるために。
7年 石神井川弟子南 @oikyu
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