終章:君を支えるテンセグリティ
一年後。
俺と莉奈が土壇場で生み出した、テンセグリティ構造のランジェリーは、「アーキテック・ビューティー」と名付けられ、記録的な大ヒット商品となった。
発売から3か月で10万枚を売り上げ、女性雑誌では「革命的な着け心地」「下着の概念を変える一枚」として特集が組まれた。特に、30代から40代の働く女性からの支持が高く、「一日中着けていても疲れない」「姿勢が良くなった」という声が多数寄せられた。
技術的な話になるが、テンセグリティ構造の最大の特徴は「適応性」だった。従来のワイヤー構造は固定的で、体型の変化に対応できなかった。しかし、張力材の組み合わせによるサポートシステムは、体型や姿勢の変化に動的に対応できた。
例えば、朝と夕方では体型が微妙に変化する。むくみ、血行の変化、姿勢の疲れなど、様々な要因で1日の間にバストラインは変動する。従来のブラジャーでは、朝にフィットしても夕方には窮屈になることがあった。
しかし、「アーキテック・ビューティー」は、これらの変化に自動的に追従した。張力材が体の動きに合わせて微調整され、常に最適なフィット感を維持する。まさに「生きているブラジャー」だった。
海外からの引き合いも多く、ヨーロッパとアメリカへの輸出も決定した。特に、健康意識の高い北欧諸国からの注文が殺到した。デンマークの医療関係者からは「整形外科的観点から見ても理想的な構造」という評価を受けた。
そして俺は今や、デザイン課になくてはならないチーフ・テクニカルデザイナーとして活躍していた。技術者とデザイナーの通訳として、数々の新商品を世に送り出している。
俺の専門分野は、「構造デザイン工学」と名付けられた。建築学、材料工学、人間工学、そしてファッションデザインを統合した新しい学問領域だった。大学でも客員講師として教鞭を執り、次世代の技術者育成に貢献していた。
学生たちからは「橋を設計する気持ちで下着を作る変わった先生」と呼ばれていたが、それも悪くなかった。異分野融合の面白さを、多くの若者に伝えることができていた。
* * *
俺の実家のレース工場もまた、息を吹き返していた。
「アーキテック・ビューティー」に使われている特殊なレースの生産を独占的に請け負うことで、経営は見事に再建されたのだ。
古い織機も全面的にオーバーホールされ、最新のコンピューター制御システムが導入された。ドイツの老舗機械メーカー、カール・マイヤー社の技術者が来日し、1950年代の織機を21世紀の技術で蘇らせた。
「古い機械の良さと、新しい技術の融合。これが未来の製造業のモデルですね」
ドイツ人技術者のハンス・ミュラー氏は、感心していた。
新しい技術者も雇用した。地元の工業高校を卒業した若者たちが、伝統技術を学びながら最新技術も習得している。父親は「圭祐のおかげだ」と言って涙を流したが、俺は「これは俺一人の力じゃない」と答えた。莉奈との協力があってこそ実現できたことだった。
工場では、新しいプロジェクトも進行していた。テンセグリティ構造を応用した医療用衣料の開発だった。手術後の患者や、リハビリ中の患者のための、治療効果を高める特殊な衣料。医療機関からの期待も高く、新しい市場の開拓につながっていた。
織原レース工業は、伝統技術と最新技術の融合により、新しい時代の繊維企業として生まれ変わった。従業員数も20人まで回復し、地域経済の活性化にも貢献していた。
* * *
ある休日の午後、俺たちは二人で、あの思い出のレース工場にいた。
俺は、莉奈のためだけに世界で一枚だけの特別なレースを織り上げていた。それは二人が出会ってから、これまでの思い出のモチーフがたくさん編み込まれたデザインだった。
吊り橋、トラス構造、そしてアール・ヌーヴォーの蔦模様。俺たちが一緒に作り上げてきた全ての技術と美学が、一枚のレースに結実していた。
中央部には、テンセグリティ構造をモチーフにした抽象的なパターン。張力と圧縮の美しいバランスが、糸の織りなす幾何学に表現されていた。
周囲には、フィボナッチ螺旋が優雅に舞い踊る。黄金比に基づく美しい曲線が、レース全体に有機的な生命感を与えていた。
そして、最も細かい部分には、ヴォロノイ図のパターンが散りばめられている。まるで星座のように、小さな美しさが全体の美しさを支えていた。
職人の山田さんも、俺の作業を温かく見守ってくれている。「若旦那の腕も、なかなかのものですね」と言って笑った。70歳を超えた今でも、その目は職人としての誇りに輝いていた。
「この模様、初めて見ますね。どこの国の伝統技法ですか?」
山田さんの質問に、俺は答えた。
「日本の新しい技法です。建築学とレース技術を融合させた、俺たちのオリジナルです」
「素晴らしい。伝統は、こうやって新しいものと融合して発展していくんですね」
山田さんの言葉に、俺は深く頷いた。伝統と革新、過去と未来、技術と芸術。相反するように見える要素を調和させることが、真の創造だった。
「ねえ、圭祐くん」
莉奈が俺の背中にそっと寄りかかりながら言った。彼女の温かさが、俺の心を落ち着かせる。
「このレースで、私のウェディングドレス……デザインしてくれる?」
俺の手が止まった。織機の音も、一瞬静かになったような気がした。
莉奈との関係は、この一年で大きく発展していた。仕事のパートナーから、人生のパートナーへ。自然な流れだったが、いざ結婚の話になると、俺の心は激しく動揺した。
「ああ」
俺は織機を止めて、彼女に向き直った。
「君の人生を支える最高の構造で……世界で一番美しいドレスを作ってやるよ」
俺の言葉に込められたのは、技術者としての自信だけでなく、男としての愛情だった。彼女を幸せにしたい、一生守り続けたいという強い想い。
「ありがとう」
彼女は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「あなたと出会えて、本当によかった」
彼女の瞳に映る俺の姿を見て、俺は確信した。これが、俺の求めていた答えだった。建築家になれなかった俺だが、彼女という最高の構造物を支えることができる。それで十分だった。
古い織機の優しい音に包まれながら、俺たちはそっと唇を重ねた。
俺たちの恋は、どんな頑強な構造物よりも強く、そして、どんな繊細なレースよりも美しく編み上げられていた。建築とレース、論理と感性、男と女。全ての要素が完璧なバランスを保ちながら、一つの美しい構造を作り上げている。
これこそが、俺たちのテンセグリティ。
永遠に崩れることのない、愛の構造だった。
* * *
結婚式は、翌年の春に行われた。
会場は、俺が学生時代に設計した幻の美術館をモチーフにした、特別な空間だった。莉奈のアイデアで、建築とファッションが融合した、世界初のコンセプトウェディングとなった。
俺が設計したウェディングドレスは、テンセグリティ構造の究極形だった。200本以上の細いワイヤーと、3000メートルのシルク糸が織りなす立体構造。まるで空中に浮いているかのような軽やかさと、圧倒的な存在感を両立していた。
ドレスの構造原理は、俺が学生時代に研究した吊り橋の理論がベースになっていた。主ケーブルの役割を果たすメインワイヤーが、ドレス全体の形状を決定。ハンガーケーブルに相当する細いワイヤーが、生地を支えている。
歩くたびに、ドレスが美しく揺れる。その動きは、風に揺れる吊り橋のような、構造的な美しさを持っていた。ゲストたちは、その革新的なデザインに圧倒されていた。
「まるで建築物を着ているみたい」
「でも、とても女性らしくて美しい」
建築と女性美の完璧な融合。それが、俺たちの到達した答えだった。
式の最後に、俺は誓いの言葉を述べた。
「莉奈、君との出会いで、俺は本当の建築を知りました。建物を作ることではなく、人を支えることが建築なのだと。君と一緒に、これからも美しい構造を作り続けていこう」
莉奈も答えた。
「圭祐、あなたは私に技術の美しさを教えてくれました。感性だけでなく、論理も美しいのだと。二人で、新しい美の世界を創造していきましょう」
指輪交換の瞬間、俺は思った。この指輪もまた、円という完璧な構造だった。始まりも終わりもない、永遠の象徴。俺たちの愛も、この構造のように永続するだろう。
披露宴では、会社の同僚たちや、実家の職人さんたち、そして大学の恩師である高橋教授も駆けつけてくれた。
「君は建築家にはなれなかったが、建築の本質を理解した技術者になったね」
高橋教授の言葉が、俺の胸に響いた。
「建築とは、人間の幸福のための技術。君が作っているのも、立派な建築だよ」
俺は深く頷いた。形は違うが、俺も建築に携わっている。人を支え、美しくする構造を作ることに変わりはない。
マダム・ローズからは、特別なプレゼントが贈られた。パリの老舗レースメゾン「シャンティイ・ルフェーブル」とのコラボレーション契約書だった。
「君たちの技術を、ヨーロッパの伝統技法と融合させる。これが、次のプロジェクトよ」
俺たちの挑戦は、まだ始まったばかりだった。
(了)
【ランジェリー業界お仕事恋愛短編小説】アンダーワイヤーの建築学 ~構造計算できない恋の方程式~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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