第三章:許容誤差、0.5ミリの攻防

 俺は自分の部屋で、一人、絶望に打ちひしがれていた。


 建築家の夢にも破れ、今度は仕事も仲間も失うのか。


 俺は何のために生きているのだろう。窓の外を見ると、建設中のマンションが見える。あそこで働いているのは、俺の大学の同期たちかもしれない。彼らは今、夢を実現している。


 俺だけが取り残されている。


 部屋には、大学時代の建築模型が並んでいた。卒業設計で作った美術館の模型、構造力学の授業で作ったトラス橋の模型、そして幼い頃に父親と一緒に作った木造住宅の模型。全てが、俺の挫折した夢を物語っていた。


 テレビをつけると、ニュースで新国立競技場の建設進捗が報じられていた。隈研吾氏設計の美しい木造屋根構造。俺が憧れていた建築家の一人だった。彼の作品は、伝統と革新を見事に融合させている。俺も、いつかはあんな建築を設計したかった。


 そんな俺の許に、莉奈からメッセージが届いた。


 『今すぐ、会社の第二サンプルルームに来て。誰にも見つからないように』


 夜中の1時。俺は、言われるがまま深夜、会社に忍び込んだ。セキュリティカードは停止されているため、非常階段から侵入した。ビルの警備は手薄で、バレるリスクは低かったが、見つかれば不法侵入で逮捕される可能性もあった。


 薄暗いサンプルルームで待っていた莉奈の目は、いつもよりもずっと力強く輝いていた。彼女は、一枚のデザイン画を持っていた。


「圭祐くん、泣いてる暇はないわよ」


 彼女は一枚のデザイン画を俺の前に広げた。


「私たちで、あれを超えるものを作りましょう。誰も真似できない、誰も盗めない究極の一枚を」


 それは正気の沙汰ではなかった。俺は既に会社から追放されている身。莉奈もこんなことが発覚すれば、確実に処分される。彼女のキャリアも台無しになってしまう。


「でも、あなたまで巻き込むわけには……」


「私の意志よ」


 莉奈の声には、強い決意が込められていた。「あなたを信じるということは、一緒に戦うということ。それが、パートナーの意味でしょう?」


 だが、彼女のその狂気にも似た情熱が、俺の心の奥底に眠っていた闘争心に再び火をつけた。


「やりましょう」


 俺は答えた。


「俺たちの本当の実力を見せてやりましょう」


 俺たちの秘密の、そして最後の戦いが始まった。


* * *


 莉奈は、祖父が遺したアンティークレースのデザインをさらに昇華させ、全く新しいパターンを生み出した。それは、19世紀のアール・ヌーヴォーの美しさに、21世紀のミニマルデザインを融合させた、革新的なものだった。


 植物のつたをモチーフにしながらも、その線は数学的な美しさを持っていた。フィボナッチ数列に基づく黄金比の螺旋、フラクタル幾何学の自己相似性、そしてヴォロノイ図の有機的な分割パターン。自然界の法則を、人工的な美しさに昇華させた傑作だった。


 ヴォロノイ図とは、平面上の複数の母点に対して、それぞれの点に最も近い領域を分割した図形。キリンの斑点、蜂の巣、細胞分裂パターンなど、自然界に普遍的に現れる構造だった。


 莉奈のデザインは、このヴォロノイ図をレースパターンに応用したものだった。不規則に見えて実は数学的秩序を持つ、複雑で美しい模様。コンピューターグラフィックスでは一般的な技法だが、レースデザインに応用した例は世界初だった。


 そして俺は、その彼女のデザインを実現させるための究極の「構造」を探し求めた。


 ヒントは、意外な場所にあった。

 俺が学生時代に夢中になって研究していた、建築家バックミンスター・フラーの理論。


 テンセグリティ構造。


 テンセグリティ(Tensegrity)は、Tension(張力)とIntegrity(統合)を組み合わせた造語。圧縮材(固い棒)と張力材(ロープ)の絶妙なバランスだけで自立する特殊な構造体。従来の建築のように、重い部材を積み上げるのではなく、軽い部材の張力バランスだけで強度を実現する。


 この構造は、1948年にアーティストのケネス・スネルソンが発見し、建築家のバックミンスター・フラーが理論化した。生物の骨格や細胞構造にも見られる、自然界の基本原理の一つだった。


 これをブラジャーの設計に応用できないか。ワイヤーという固い部材と、レースやストラップという柔らかい部材。その張力のバランスだけで、バストを支え、かつ美しいフォルムを作り出す。


 俺は、大学時代のノートを引っ張り出し、テンセグリティ理論を復習した。フラーの著作『シナジー理論』『宇宙船地球号』を読み返し、その構造原理を理解し直した。


 特に重要だったのは、「最小エネルギー原理」だった。テンセグリティ構造は、全体のエネルギーが最小になる状態で平衡を保つ。これは、物理学の基本法則で、自然界のあらゆる現象に適用される。


 これをブラジャー設計に応用すれば、最小限の材料で最大の効果を得られるはずだった。重力に対する抵抗力を、効率的に配分することで、軽やかな着用感と確実なサポート力を両立できる。


 それは、まさに建築とランジェリーの究極の融合だった。


 そして、数日間の計算の末、俺は答えを見つけた。


 従来のブラジャーは、アンダーワイヤーという1本の圧縮材でバスト全体を支えようとする。そのため、一点に大きな応力が集中し、着用感が悪くなる。また、バストの形状に完全にフィットさせることも困難だった。


 しかし、テンセグリティ構造なら、複数の小さな張力材(=レースの糸)が連携してバスト全体を包み込むように支える。荷重分散が理想的に行われ、軽やかな着用感と確実なサポート力を両立できる。


 さらに、各々の張力材は独立して調整可能なため、個人の体型に合わせた最適化も容易だった。まさに、オーダーメイドのような フィット感を、既製品で実現できる技術だった。


* * *


 俺たちは、寝る間も惜しんで試作品を作り続けた。


 莉奈は、職人並みの技術でレースを手編みした。細い糸を一本一本、設計図通りの角度と張力で編み上げていく。その集中した表情は、まさに芸術家そのものだった。


「この部分の張力は2.3ニュートン、角度は67度」


 俺の計算書を見ながら、彼女は正確に糸を操る。数学的精密さと職人的感覚の完璧な融合だった。


 俺は、CADソフトで構造計算を繰り返した。わずか0.1ミリの誤差も許されない精密な設計。コンピューターシミュレーションで、何百通りものパターンを検証した。


 有限要素法解析ソフト「ANSYS」を使い、レース構造の応力分布を詳細に計算する。テンセグリティ構造の最適化には、非線形解析が必要で、計算時間は膨大だった。


 深夜2時、3時まで作業を続ける日々。コンビニ弁当とコーヒーだけで過ごす食事。しかし、俺たちは疲れを感じなかった。何かとてつもないものを作り上げているという確信があった。


「圭祐くん、見て」


 莉奈が、完成したレースパターンを見せてくれた。ヴォロノイ図とフィボナッチ螺旋が融合した、今まで見たことのない美しさだった。


「美しい……まるで生きているみたい」


 俺は感嘆した。数学的秩序と有機的美しさが、完璧に調和していた。


 そして、数日後。世界にまだ一つしか存在しない究極の試作品が完成した。


 それを最初に試着するのは、デザイナーである莉奈自身だった。


* * *


 フィッティングルーム。向き合う俺と彼女。気まずい沈黙。


 俺は、プロとして平常心を装いながら、彼女の身体のサイズを採寸する。

 メジャー越しに伝わってくる彼女の肌の温かさ、微かな香水の匂い。


 俺の心臓は、とっくに許容誤差を超えて暴走していた。


「バスト85センチ、アンダー68センチ、カップの高さ12センチ……」


 俺は、データを機械的に記録した。しかし、その数字の向こうにある彼女の存在を意識せずにはいられなかった。彼女の肌は、思っていたよりも白く、きめ細かかった。


 建築学を学んできた俺にとって、人体の曲線は最も複雑で美しい構造物だった。工学的には「複合曲面」と呼ばれる、数式では完全に表現できない形状。しかし、その不完全性こそが、人工物にはない美しさを生み出していた。


「ありがとう。それじゃあ、試着してみるわね」


 彼女はカーテンの向こうに消えた。数分間の静寂。俺は自分の心臓の音が聞こえそうなほど緊張していた。


 技術者として客観的でいなければならない。しかし、彼女への想いが、その冷静さを奪っていく。この感情は、どんな構造計算でも制御できない。


 そして、彼女がその試作品を身につけて、カーテンの向こうから現れた瞬間。


 俺たちは二人とも息を呑んだ。


 それは完璧だった。まるで重力から解放されたかのように軽やかで、自然で、そして息をのむほど美しい。


 テンセグリティ構造により、従来の重厚なワイヤーは不要になった。代わりに、レースの糸自体が構造材として機能し、バスト全体を優しく包み込んでいる。着用感は羽のように軽やかなのに、サポート力は従来品を上回っている。


 ヴォロノイ図のレースパターンが、バストの曲線と完璧に調和していた。幾何学的美しさと有機的美しさが、見事に融合している。


 究極のフィット感と究極の美しさが、そこにあった。


「すごい……。でも、ちゃんと支えられてる」


 莉奈の声には、感動と驚きが混じっていた。デザイナーとしての彼女も、エンジニアとしての俺も、共に感動していた。


「あなたを支えるための……


 俺は気づけば、そう口走っていた。技術的な評価のつもりだったが、言葉に出した瞬間、別の意味を持った。


 そして続けた。


「仕事だけじゃありません。


 それは俺の生まれて初めての、構造計算を無視した不器用な告白だった。数式では表現できない感情を、やっと言葉にできた瞬間だった。


 莉奈は顔を真っ赤にしながら、その美しい瞳を潤ませて……静かに頷いた。


「私も……あなたと一緒に仕事がしたい。


 彼女の声は小さかったが、確かな決意が込められていた。


 その瞬間、俺たちの間に、どんな構造計算でも設計できない特別な絆が生まれた。論理を超越した、感情の結合。それは、俺が今まで経験したことのない、美しい構造だった。


* * *


 その数日後、会社の最終プレゼンテーションの会議室に、俺と莉奈は乗り込んだ。


 ライバル社が俺たちの盗んだ技術で作った新製品の発表会が行われるその同じ日に。俺たちは役員たちの度肝を抜いた。


 会議室には、マダム・ローズをはじめとする役員たち、そしてライバル社のスパイ疑惑で俺を糾弾した人々が集まっていた。重苦しい空気が漂う中、俺たちは究極の一枚を披露した。


「皆様、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」


 莉奈が、プレゼンテーションを始めた。彼女の声は、いつもの自信に満ちていた。


「本日は、全く新しいコンセプトのランジェリーをご紹介いたします。名称は『テンセグリティ・ビューティー』。建築工学の最先端理論を応用した、革命的な製品です」


 スクリーンに映し出されたのは、俺たちが開発したブラジャーの三次元構造図だった。従来の設計図とは全く異なる、複雑で美しい幾何学模様。


「従来のブラジャーは、アンダーワイヤーという単一の支持材に依存していました。しかし、この新構造では、複数の張力材が協調してサポート機能を実現します」


 俺が、技術的説明を引き継いだ。


「テンセグリティ構造により、荷重分散が最適化され、着用感は従来品比較で70%向上。同時に、サポート力は30%向上しています」


 データとグラフを示しながら、俺は説明を続けた。しかし、役員たちの表情は依然として懐疑的だった。特に、俺を疑った経理担当の常務は、明らかに不快そうな顔をしていた。


「しかし、君はもう会社の人間ではないのではないかね?」


 常務の冷たい声が、会議室に響いた。


「自宅待機中の人間が作った製品など、信用できるはずがない」


 その時、マダム・ローズが立ち上がった。


「実際に見てみましょう」


 彼女の一言で、デモンストレーションが始まった。


* * *


 俺たちの生み出した新しいランジェリーは、ライバル社のそれとは次元が違っていた。それはもはや下着ではなかった。アートであり、そしてテクノロジーだった。


「これは……信じられない」


 マダム・ローズが呟いた。


「こんなものが作れるなんて」


 彼女は75年の人生で、数千種類のランジェリーを見てきた。しかし、これほど革新的な製品は初めてだった。技術的完成度もさることながら、美的完成度も群を抜いていた。


「美しい……まるで芸術作品ね」


 デザイン課長の田村さんが、感嘆の声を上げた。


 プレゼンテーションは大成功を収めた。役員たちの表情も、徐々に変わっていった。疑念から関心へ、そして確信へ。


 そして、その場で俺の無実も証明された。


「実は、昨日、真犯人が判明いたしました」


 マダム・ローズが、重々しく口を開いた。


「情報を漏洩させたのは、経理部の森田課長でした」


 会議室に、どよめきが起こった。

 森田課長は、俺を最も強く糾弾していた人物の一人だった。


「彼は、開発データにアクセスできる立場を悪用し、詳細な技術情報をライバル社に売り渡していました。その証拠メールが発見され、本人も犯行を自白しています」


 森田課長は50代後半で、この会社に25年勤務していた。病気の家族を養うために、副収入を求めていたという。ライバル社からの巧みな誘いに乗り、段階的に情報を流していた。


 しかし、今回の技術は他とは違った。俺たちが開発したテンセグリティ構造は、従来の延長線上にない革新的技術だった。森田課長が盗めたのは、その初期段階の不完全な情報だけだった。


「つまり、彼らが盗んだのは、完成前の古いデータです。現在の技術とは全く別物なのです」


 俺の説明に、役員たちは納得した。ライバル社の製品は、確かに俺たちの初期アイデアに似ていたが、技術的完成度は比較にならなかった。


 俺は、会社に正式に復帰した。そして、新しいポジションを与えられた。「チーフ・テクニカルデザイナー」。技術とデザインの橋渡し役として、会社の新商品開発を統括する重要な役職だった。


「織原くん、君を疑って申し訳なかったわ」


 マダム・ローズが、俺に深々と頭を下げた。


「いえ、あの状況でしたら、当然の判断だったと思います」


 俺は答えた。


「今回のことで、情報管理の重要性を改めて認識しました」


 その後、森田課長は懲戒解雇され、警察に告発された。産業スパイ行為は刑事事件として立件され、実刑判決を受けることになった。

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