第50話【ヴァルキュリア公爵視点】砕け散る憎悪

目の前で繰り広げられる光景は、悪夢そのものだった。

我が半生を捧げ、忠誠を誓った王家が、国が、たった一人の男の狂気によって崩壊していく。宰相オルダスが変貌した呪詛の怪物は、もはや人の理が及ぶ存在ではない。騎士たちの剣は届かず、イザベラ様と私の魔法障壁も、その禍々しい瘴気の前では長くはもたない。


「公爵! 王女殿下!」

憎きリンドヴルム家の娘、セレスフィアが叫ぶ。その声が、今の私にはひどく遠く聞こえた。

リンドヴルム卿への憎悪。先の戦で、奴の判断ミスがなければ、我が息子は死なずに済んだ。その一点が、私の心を長年縛り付けてきた。だからこそ、その娘であるセレスフィアが聖女と崇められることも、我慢ならなかったのだ。


だが、今、この絶望的な状況を前にして、悟ってしまった。オルダスの狂気は、あまりに用意周到だ。王を呪い、王子と王女を対立させ、国を内側から腐らせる。リンドヴルム卿の失態も、本当にただの失態だったのか? あの男の忠義を、誰よりも知っていたはずの私が、憎しみに目がくらみ、真実を見ることを怠っていたのではないか?


「ぐっ……!」

瘴気を浴びた体が軋む。力が抜けていく。イザベラ様をお守りせねばならぬのに、膝が折れそうだ。

その時、怪物が振り上げた巨大な腕から、天井の巨大なシャンデリアが砕け、私の頭上へと降り注いだ。

もはや、避けられぬ。ここまでか。


だが、衝撃は来なかった。

「……なぜ」

私の目に映ったのは、身を挺して私たちを庇う、セレスフィア・フォン・リンドヴルムの姿だった。彼女が咄嗟に展開した小さな魔法障壁が、降り注ぐ瓦礫を受け止め、みしみしと悲鳴を上げている。

「なぜ、私を庇う……! 私は、お前の父を侮辱し……お前を、あれほど……!」

「今は……そんなこと、どうでもいいでしょう!」

彼女の青い瞳が、私をまっすぐに見据えていた。その瞳に宿るのは、憎しみではなく、ただ、この国を、人々を守らんとする、揺るぎない意志。


次の瞬間、轟音と共に玉座の間の壁が砕け散った。

そこに舞い降りたのは、黄金の神獣――グリフォン。


グリフォンは、咆哮一つで怪物の瘴気を吹き飛ばすと、巨大な鉤爪でその腕を地面に縫い付けた。主君の危機を救う、まさしく守護神の姿。建国王が友としたという、その神々しい姿に、私は我が身の矮小さを恥じた。

怪物がもがき、グリフォンを振り払おうとする。だが、その隙に、小さな青いスライムが、怪物の体に吸い付いた。


神獣と聖獣。

あの二つの存在こそが、この国の真の希望。

私の憎悪など、この絶対的な奇跡の前では、なんとちっぽけなものだったか。


「……リンドヴルム嬢。いや、セレスフィア殿」

私は、砕け散った心の欠片を拾い集めるように、声を絞り出した。

「……すまなかった」

彼女は、驚いたように私を見たが、すぐに力強く頷いた。今は、言葉は不要だった。

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