第38話 俺の知る世界、俺の知らない君

意識がゆっくりと浮上してくる。

最初に感じたのは、全身を包む水の冷たさと、左腕を焼くような激しい痛みだった。次に、自分の頬に当たる、硬いがどこか優しい感触。そして、微かに聞こえる、誰かの懸命な息遣い。

俺は、重い瞼をこじ開けた。


視界に映ったのは、薄暗い洞窟の天井と、すぐ目の前にある、ティナの真剣な顔だった。

彼女は俺の隣に膝をつき、必死の形相で俺の左腕の手当てをしていた。その瞳には涙の膜が張っていたが、指先は驚くほど落ち着いていて、震えてはいなかった。

マントを裂いて作った包帯を、慣れない手つきで、けれど力強く、傷口に巻き付けていく。


「……ティナ……」

掠れた声で名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと大きく跳ねた。

「……! 目が覚めたの……!? よかった……本当によかった……!」

安堵からか、彼女の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、俺の頬を濡らした。


俺は、ゆっくりと上半身を起こそうとして、左腕に走る激痛に顔を顰めた。

「……くっ……」

“静寂の使徒”に切りつけられた傷は、思った以上に深いらしい。骨までは達していないが、下手をすれば神経をやられていたかもしれない。

あの状況で、よく生き延びられたものだ。


いや、違う。

生き延びられたのは、俺の力じゃない。


「……ごめんなさい。私のせいで、あなたがこんな怪我を……」

ティナが、罪悪感に満ちた声で呟く。

俺は、空いている右手で、彼女の頭をくしゃりと撫でた。


「馬鹿なこと言うな」

その言葉は、自分でも驚くほど、優しい響きをしていた。

「逆だろ。君が助けてくれたんだ、ティナ。君がいなかったら、俺は今頃、あの森の底でカラスの餌になってた」


俺の言葉に、彼女は驚いたように顔を上げた。

その濡れた瞳が、信じられないというように、俺をじっと見つめている。


「君が機転を利かせて、落ち葉で目眩ましをしてくれた。蔦で奴らの足を止めてくれた。あの数秒がなければ、俺たちは絶対にあの結界から脱出できなかった。……君は、俺の命の恩人だ」


嘘偽りのない、本心だった。

あの時、俺は完全に詰んでいた。魔術を封じられ、多勢に無勢。俺の“ゲーム知識”の中には、あの状況を覆すための攻略法なんて、どこにも存在しなかった。

絶望しかけた俺の前に道を作ったのは、他でもない。

目の前で涙を流している、このか弱い少女の、咄嗟の判断力と勇気だった。


「……そんなことない」

ティナは、照れくさそうに顔を伏せる。

「私は、あなたが教えてくれたことを、必死に思い出しただけ。あなたが、いつも見ててくれるって、信じてたから……」

その声は、まだ少し震えていたけれど、その横顔には、俺が今まで見たことのない、凛とした強さが宿っていた。


ああ、そうか。

俺は、知らず知らずのうちに、とんでもない勘違いをしていたらしい。

俺が、ティナを守り、導いている。

そう思っていた。けれど、本当は違ったのだ。

俺たちは、いつの間にか、互いの背中を預け合い、足りない部分を補い合う、本当の“相棒”になっていたのだ。


その事実は、左腕の痛みなど吹き飛ばしてしまうほどの、温かい衝撃となって、俺の胸を満たしていった。


◇ ◇ ◇


それから二日間、俺たちはその小さな洞窟で、傷が癒えるのを待った。

幸い、使徒の短剣に毒は塗られていなかったらしく、ティナの懸命な看病と、村で買っておいた薬草のおかげで、傷は驚くほど速く回復していった。


動けない俺の代わりに、ティナは一人で、洞窟の外へ食料を探しに行った。

最初は心配で止めようとしたが、彼女の「私に任せて」という、強い意志のこもった瞳を見て、俺は何も言えなくなった。

彼女は、俺が教えた通り、食べられる木の実や薬草をちゃんと見つけてきた。近くの小川で、器用に水を汲んできた。その姿は、もう王都にいた頃の、か弱く、何かに怯えていた少女の面影はどこにもなかった。


夜、燃え盛る焚き火を見つめながら、俺は深い思索に沈んでいた。

今回の襲撃は、俺の中に、一つの大きな疑問と、拭い去れない恐怖を植え付けていた。


(“静寂の使徒”……あんな奴ら、ゲームにはいなかった……!)


俺が知る『セレスティア・クロニクル』の世界。

そのメインストーリーにも、膨大な数のサブイベントにも、あんな特殊能力を持つ暗殺者集団は登場しなかったはずだ。

もちろん、俺の記憶違いという可能性もある。三年以上もやり込んだゲームとはいえ、全ての情報を完璧に記憶しているわけではない。

だが、あの“魔術を減衰させる結界”は、あまりにも特異すぎる。ゲームのバランスを根底から覆しかねない、強力な能力だ。もしそんなものが存在したなら、俺が忘れるはずがない。


だとしたら、答えは一つしかない。

この世界は、俺の介入によって、俺の知る“物語”から、少しずつ、だが確実に、逸脱し始めているのだ。


ティナが悪神と契約し、破滅の道を歩む。

それが、本来の“確定された運命”だった。

俺は、それを捻じ曲げた。彼女を救うために、物語の根幹に手を加えた。

その結果、世界は、俺という“異物”を排除するため、あるいは、変わり始めた運命を元に戻すため、新たな“障害”を生み出したのではないか。

“静寂の使徒”は、そのために現れた、イレギュラーな存在なのではないか。


ぞくり、と背筋に冷たい汗が流れた。

もし、この仮説が正しいとしたら。

俺が今まで頼りにしてきた“ゲーム知識”という、最大のアドバンテージは、もう何の役にも立たないかもしれない。

これから先、どんな未知の脅威が、俺たちの前に現れるか、全く予測がつかない。

俺は、コンパスも地図も持たずに、荒れ狂う海を、小さな舟で進んでいるようなものだ。


その恐怖が、俺の心をじわじわと蝕んでいく。

俺は、本当にティナを守りきれるのだろうか。

俺の存在そのものが、かえって彼女を、より危険な運命へと導いてしまっているのではないか。


「……どうか、したの?」

不意に、隣からティナの声がした。

いつの間にか、彼女が俺の顔を、心配そうに覗き込んでいた。

その澄んだ瞳に、俺の不安や恐怖が映り込んでいるような気がして、俺は慌てて顔を背けた。


「……いや、なんでもない。少し、考え事をしていただけだ」


「……嘘」

ティナは、静かに、けれどはっきりとそう言った。

「嘘だよ。あなたの目、すごく怖い顔をしてた。何か、怖いことでも考えていたんでしょ」


彼女には、敵わない。

俺が何を考えているのか、彼女はまるで自分のことのように感じ取ってしまうらしい。

俺は、観念して、大きくため息をついた。


「……少しな。俺たちの先に、何が待っているのかと思うと……少しだけ、怖くなる時がある」

それは、俺が初めて彼女に見せた、弱音だった。


すると、ティナは何も言わずに、そっと、俺の手に自分の手を重ねてきた。

その手は、まだ小さくて、華奢で、けれど、俺を力づけようとする、温かい意志に満ちていた。


「……大丈夫だよ」

彼女は、焚き火の炎を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「私も、怖いよ。毎日、怖い。お尋ね書きの自分の顔を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。故郷にも、家族の元にも、もう二度と帰れないんだって思うと、涙が出そうになる」


彼女もまた、俺の知らないところで、ずっと恐怖と戦い続けていたのだ。


「でもね」

彼女は、顔を上げて、真っ直ぐに俺の目を見た。

その瞳は、もう濡れてはいなかった。

「でも、あなたが隣にいてくれるから、私は大丈夫だって思える。あなたが、私の名前を呼んでくれるだけで、私はまだここにいていいんだって、そう思えるの」


彼女の言葉が、俺のささくれた心を、優しく撫でていくようだった。


「だから、あなたも一人で怖がらないで」

彼女は、俺の手を、ぎゅっと強く握りしめた。

「私も、あなたの隣にいるから。あなたの“相棒”だから。もし、あなたが道に迷ったら、今度は私が、あなたの手を引いてあげる。だから……大丈夫」


その瞬間、俺の中の恐怖が、すうっと、霧が晴れるように消えていった。

何を、俺は一人で抱え込んでいたのだろう。

俺がティナを守る? 違う。

俺がティナを導く? それも、もう違う。

俺たちは、二人で一つなのだ。

互いに支え、互いに補い合い、二人で未来を切り開いていく。

それだけが、この過酷な世界で、俺たちが生き残るための、唯一の答えなのだ。


俺は、握られた彼女の手に、そっと力を込めて握り返した。

「……ああ。そうだな。君の言う通りだ」


俺の知る『セレスティア・クロニクル』の世界は、もうどこにもない。

これから先に待っているのは、誰にも予測できない、未知の物語だ。

だが、それがどうした。

俺の隣には、俺の知らない強さと優しさを手に入れた、最高の相棒がいる。

彼女さえいれば、きっと、どんな運命だって乗り越えていける。


「……ありがとう、ティナ」


俺の心からの感謝の言葉に、彼女は、世界で一番美しい顔で、はにかむように微笑んだ。

その笑顔を守るためなら、俺は、どんな未知の脅威にだって、立ち向かっていける。

焚き火の炎が、洞窟の闇を照らし出す。

それは、二人の逃亡者の未来を祝福する、温かい光のように、いつまでも、いつまでも、揺らめいていた。

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