第39話 越えるべき山脈
教会の追手を退け、傷を癒した私たちは、再び東を目指した。
森を抜け、丘を越え、いくつもの川を渡った。季節は完全に移り変わり、吐く息は白く、朝露は霜となって地面を覆うようになった。
そして、旅を始めて一月が過ぎた頃、私たちの目の前に、ついに最後の、そして最大の障壁が立ちはだかった。
天を突くように連なる、巨大な山脈。
その頂は万年雪に覆われ、麓でさえ、吹き下ろしてくる風は刃のように冷たい。
あれを、越える。
あの山の向こうに、私たちが目指す自由都市ヴェリディアがある。
「……すごい……」
あまりの壮大さに、私はただ息を呑むことしかできなかった。
貴族の令嬢として、絵画や書物の中でしか見たことのなかった峻厳な自然。それが今、圧倒的な現実として、私の前に存在していた。
本当に、越えられるのだろうか。
「覚悟はいいか、ティナ?」
隣で、彼が静かに問いかけた。その横顔は、目の前の山脈と同じくらい、険しく、そして揺るぎない覚悟に満ちていた。
「……うん」
私は、強く頷いた。
もう、迷いはない。彼と一緒なら、どんな場所へだって行ける。
私たちは、麓の森で数日をかけて入念な準備を整えた。
罠を仕掛けて毛皮を手に入れ、粗末だが防寒性の高い外套を作った。食料となる干し肉も、燻製にして出来る限り多く確保した。山を越えるための杖も、硬い木を削って作った。
その全てを、彼は手際よく、そして私にも丁寧に教えてくれた。生きるための技術が、また一つ、また一つと、私の血肉になっていく。
山への登攀が始まった。
最初の数日は、まだ緩やかな獣道が続いていた。けれど、標高が上がるにつれて道は消え、私たちは、雪と氷に覆われた岩肌を、文字通り這うようにして登っていかなければならなかった。
空気は薄く、呼吸をするだけで胸が痛い。一歩足を踏み出すごとに、体中の熱が奪われていくようだった。
「ティナ、こっちだ。足場がしっかりしている」
常に、彼が数歩先を行き、安全なルートを確保してくれる。
私が足を滑らせそうになれば、その力強い腕が、寸でのところで私の体を支えてくれた。
彼の存在がなければ、私はきっと、一時間ももたずに谷底へ滑落していただろう。
登り始めて五日目のことだった。
空を覆っていた灰色の雲が、急速に黒く、重くなっていったかと思うと、突如として、猛烈な吹雪が私たちに襲いかかった。
「――まずい、来たか!」
彼の焦りの滲んだ声が、轟音のような風の音にかき消されそうになる。
視界は、一瞬で真っ白な闇に閉ざされた。
上下左右の感覚さえ曖昧になり、叩きつけるような雪と氷の粒が、容赦なく私の顔を打つ。
体感温度が、急激に下がっていくのが分かった。手足の指先の感覚が、少しずつ麻痺していく。
「ティナ! 俺から離れるな!」
彼が叫び、私の手を強く握りしめた。その手の温かさだけが、私がこの極寒地獄の中で、まだ生きているという唯一の証だった。
私たちは、身を寄せ合うようにして、ただひたすらに、風を避けられる岩陰を探して進んだ。
けれど、そんなものはどこにも見当たらない。
吹雪は、ますます勢いを増していく。
(……寒い……もう、歩けない……)
私の足が、ついに動かなくなった。
疲労と寒さで、膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになる。
意識が、遠のいていく。
眠ってしまえば、楽になれるかもしれない。そんな、死への誘惑が、頭をもたげた。
「――ティナ! しっかりしろ! 寝るな!」
彼が、私の両肩を掴み、必死に揺さぶる。
その声は、焦りと、そして恐怖に震えているように聞こえた。
彼が、私を失うことを、怖がってくれている。
その事実が、消えかけていた私の意識に、最後の火を灯した。
(……だめ……)
私は、彼の“相棒”なんだ。
彼に、こんな顔をさせてはいけない。
私は、震える唇で、かろうじて言葉を紡いだ。
「……風……なら……少しだけ……」
私は、残された最後の魔力を振り絞った。
攻撃のためではない。ただ、風の流れを制御するためだけの、小さな魔法。
私たちの周囲に、見えない風の壁が生まれた。
それは、猛烈な吹雪の勢いを、ほんの少しだけ、和らげてくれる、か弱い盾。
けれど、その僅かな緩衝が、私たちに、ほんの少しの余裕を与えてくれた。
「……ティナ……!」
彼が、息を呑むのが分かった。
私は、彼の腕に支えられながら、ふらつく足で、再び一歩を踏み出した。
「……行こう……。二人なら、きっと……」
その時、私の瞳は、確かに捉えていた。
彼もまた、限界が近いことを。
その額には脂汗が浮かび、私の手を握るその力も、心なしか弱くなっている。
ずっと、私の前を歩き、私を守り、道を切り開いてきてくれた。
彼が、一番消耗しているのは、当たり前だった。
(……今度は、私の番)
「……少しだけ、代わって」
私は、彼を制して、その前に出た。
積もった雪は、私の膝のあたりまである。一歩進むだけで、膨大な体力を消耗する、ラッセルという行為。
ずっと、彼が一人でやってくれていたこと。
「ティナ……? 無理だ、君には……!」
「……無理じゃない」
私は、彼の言葉を遮った。
「私だって……あなたの“相棒”なんだから……!」
私は、歯を食いしばり、雪の中に足を踏み入れた。
重い。冷たい。苦しい。
けれど、不思議と、心は燃えていた。
初めて、私が彼の前を歩いている。
私が、彼を導いている。
その事実が、凍てついた体に、熱い力を与えてくれた。
一歩、また一歩。
私が道を作り、彼が後ろから私を支える。
私たちは、どちらが欠けても、もう一歩も進むことはできなかっただろう。
守る者と、守られる者ではない。
ただ、互いの命を預け合う、対等な二人の人間として、私たちは、その白い地獄の中を進み続けた。
どれほどの時間が経ったのか。
もはや、時間の感覚もなかった。
私の意識が、今度こそ本当に途切れそうになった、その時。
「――ティナ、あれを!」
彼の、歓喜ともいえる声が響いた。
彼が指差す先、猛吹雪の向こうに、黒い影のようなものが、ぼんやりと見えた。
岩壁に穿たれた、小さな洞窟だった。
私たちは、最後の力を振り絞り、その暗闇の中へと転がり込んだ。
洞窟の中は、風も雪も入ってこない、静寂の世界だった。
外で荒れ狂う吹雪の音が、嘘のように遠くに聞こえる。
助かったのだ。
私たちは、どちらからともなく、互いの体を支え合うようにして、その場に崩れ落ちた。
疲労は、限界を超えていた。
もう、指一本動かす気力も残っていない。
洞窟の奥から、冷たい岩肌を伝って、水が滴り落ちる音がする。
その、命の音を聞きながら、私は隣にいる彼の顔を見上げた。
彼の銀色の髪には、雪と氷が絡みつき、その顔は、疲労で青ざめている。
それでも、その赤い瞳は、真っ直ぐに、そして優しく、私だけを見つめていた。
「……よく、頑張ったな」
彼が、掠れた声で言った。
「……あなたも」
私も、同じように返した。
それ以上、言葉は必要なかった。
私たちは、この過酷な試練を、二人で乗り越えたのだ。
その事実が、どんな言葉よりも雄弁に、私たちの絆の深さを物語っていた。
寒さが、再び体を蝕み始める。
私は、無意識に、彼の体にすり寄っていた。
彼もまた、私を拒むことなく、その冷え切った体を、私に預けてきた。
互いの体温だけが、この凍える夜を乗り越えるための、唯一の希望。
洞窟の入り口の向こうでは、まだ、世界が終わるかのような吹雪が荒れ狂っている。
けれど、私の心は、不思議なほどに穏やかだった。
この腕の中に、私が守りたい全てがある。
そして、この腕は、私を守ってくれる全てだ。
薄れゆく意識の中、私は、彼と出会ってからこれまでの日々を、静かに思い返していた。
絶望の底で始まったこの旅は、いつの間にか、かけがえのない宝物を、私に与えてくれていた。
その宝物の名前を、私はまだ、はっきりと口にすることはできなかったけれど。
外の世界から隔絶された、二人だけの夜が、静かに、始まろうとしていた。
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