第37話 見えざる脅威
宿場町での一件以来、私たちはより一層深く、森の中を進んでいた。
お尋ね書きの衝撃は、まだ私の心の奥に棘のように突き刺さっていたけれど、隣を歩く彼の存在が、その痛みを少しずつ和らげてくれている。
彼は、以前にも増して、私に生きるための技術を教え込んでくれた。
獲物を捕らえるための簡単な罠の作り方。敵から身を隠すための、痕跡の消し方。天候を読み、安全な寝床を見つける方法。
そのどれもが、私にとっては新鮮で、難しくて、けれど自分の力で生きているという確かな実感を与えてくれた。
その夜は、冷たい雨が降りしきっていた。
私たちは、岩がせり出した小さな洞窟で、身を寄せ合うようにして雨を凌いでいた。
ぱちぱちと音を立てる焚き火の炎だけが、私たちの唯一の明かりであり、暖かさだった。
「……随分、手際が良くなったな」
私が、慣れた手つきで焚き火の火力を調整しているのを見て、彼が感心したように言った。
「もう、俺が教えることはあまりないかもしれない」
「そんなことない」
私は、少しムキになって首を横に振った。
「あなたが教えてくれることは、まだたくさんある。私、全部知りたい。全部、できるようになりたい」
そう言うと、彼は一瞬だけ驚いたような顔をして、そして、とても優しい顔で笑った。
「……そうか。なら、まだまだ地獄の特訓は続くぞ。覚悟しておけよ」
その冗談めかした言葉が、嬉しかった。
彼は、私をもう“守られるべきか弱い少女”としてではなく、共に困難に立ち向かう“相棒”として扱ってくれている。その事実が、冷たい雨の夜に、焚き火の炎よりも温かく、私の心を照らしてくれた。
雨が上がった翌朝、森は濃い霧に包まれていた。
湿った空気が肌にまとわりつき、視界は数メートル先もおぼつかない。
いつもなら聞こえてくるはずの鳥のさえずりも、虫の声も、なぜか今日は全く聞こえなかった。
「……何か、おかしい」
前を歩いていた彼が、ぴたりと足を止めた。
その声には、今まで感じたことのない、鋭い警戒の色が滲んでいる。
私も、息を殺して周囲の気配を探る。
おかしいのは、音がないことだけじゃない。風が、完全に止まっている。
私の魔力の源であるはずの風の流れが、この一帯だけ、まるで分厚い壁に阻まれたかのように、完全に遮断されていた。
「ティナ。何があっても、俺から離れるな」
彼の低い声が、霧の中に響く。
その言葉と同時、私たちの周りの霧が、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと晴れていった。
そして、現れた光景に、私は息を呑んだ。
私たちを囲むようにして、五人の人影が立っていた。
全員が、顔を窺い知ることのできない、深いフードが付いた灰色のローブを身に纏っている。その手には、魔力を吸収するかのような、鈍い黒光りを放つ特殊な短剣が握られていた。
彼らからは、何の感情も、何の魔力の気配も感じられない。ただ、絶対的な静寂と、死の匂いだけが漂っていた。
「……教会の“静寂の使徒”か」
彼が、忌々しげに吐き捨てる。
「厄介なのが出てきたな……」
五人のうちの一人が、音もなく一歩前に出た。
フードの奥から、男のものとも女のものともつかない、感情のない声が響く。
「――禁術使いティナ・エルヴェンス。及び、その使役する“異界の存在”。教会の名において、その身柄を拘束する」
その言葉を合図に、五人の使徒たちが、じりじりと包囲網を狭めてくる。
「ティナ、下がってろ!」
彼は、私を背中にかばい、両手に炎の魔力を宿そうとした。
いつもなら、一瞬で燃え上がるはずの紅蓮の炎。
けれど――。
「……っ!?」
彼の手のひらに灯ったのは、まるで蝋燭の灯火のように、か弱く、頼りない小さな炎だけだった。
それは、風が吹けば消えてしまいそうなほどに、小さかった。
「無駄だ、“異界の存在”よ」
使徒の一人が、嘲るように言った。
「我らが展開する“静寂の結界”の中では、あらゆる魔術はその力を著しく減衰させられる。貴様ほどの力を持つ存在でも、赤子同然の魔法しか使えまい」
彼の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
魔術が、使えない。
彼の圧倒的な力の源泉が、封じられてしまった。
それは、私たちが最大の武器を失ったことを意味していた。
絶望が、足元から這い上がってくるようだった。
使徒たちが、音もなく距離を詰めてくる。
彼は、小さな炎をかき消し、代わりに体術の構えを取った。
「……ティナ! 俺が時間を稼ぐ! その隙に、何とかしてこの結界から……!」
彼が言い終わる前に、二人の使徒が左右から同時に襲いかかってきた。
彼は、その短剣を紙一重でかわし、反撃の蹴りを叩き込む。
だが、使徒たちは驚くべき身のこなしでそれをいなし、さらに二人、三人目が連携して彼に襲いかかる。
多勢に無勢。
魔術という切り札を失った彼は、明らかに防戦一方に追い込まれていた。
(……いや……いや!)
私の頭の中で、警鐘が鳴り響く。
このままでは、彼が殺される。
私が、守られているだけでは、二人ともここで終わってしまう。
恐怖で、足が竦む。体が、鉛のように動かない。
(考えろ……考えろ、ティナ!)
彼の声が、脳裏に蘇る。
(恐怖を感じている自分を、客観的に見つめるんだ。何が怖いのか。どうすれば、その恐怖を乗り越えられるのか)
そうだ。
私にできることは、まだあるはずだ。
私は、震える瞳で、必死に周囲を見渡した。
霧、湿った地面、絡み合う木の根、散らばる落ち葉……。
そして、彼が教えてくれた、数々の知識。
(“静寂の結界”は、魔術を“減衰”させる。完全に“無効化”するわけじゃない)
(威力は落ちる。けれど、純粋な攻撃でなければ……?)
一つの、無謀な賭けが、私の頭に閃いた。
私は、震える両手を地面にかざす。
攻撃じゃない。ただ、風を起こすだけ。
結界の影響で、魔力の流れは泥水のように重い。けれど、私はありったけの集中力で、その重い流れを無理やり動かした。
「――風よ!」
私の足元から、弱い、けれど確かな風が巻き起こった。
それは、結界の中で威力を失った、ただのそよ風。
けれど、その風は、湿った地面に積もっていた、大量の落ち葉と土埃を、一斉に舞い上がらせた。
「なっ!?」
使徒たちの足元から、突如として巻き起こった、濃密な“目眩まし”。
一瞬、彼らの視界が完全に遮られる。
その刹那の隙を、彼は見逃さなかった。
「――ティナ、よくやった!」
彼の喜びと賞賛に満ちた声が響く。
彼は、体勢を崩した使徒の一人の懐に潜り込み、強烈な掌底を叩き込んで昏倒させる。
だが、敵はまだ四人いる。
すぐに体勢を立て直し、再び彼を囲もうとする。
(まだだ……まだ、終わらせない!)
私は、次の行動に移っていた。
彼が教えてくれた、罠の作り方。
蔦の蔓が、地面を這う蛇のように伸び、使徒たちの足に絡みついた。これも、攻撃魔術ではない、ただの植物操作。結界の影響は最小限だ。
「小賢しい……!」
足を取られた使徒たちが、苛立ちの声を上げる。
その、わずか数秒。
けれど、私たちにとっては、永遠にも等しい時間だった。
彼は、私の意図を瞬時に理解し、私の手を強く掴んでいた。
「――走れ!」
私たちは、包囲網の一角が崩れた、その一点に向かって、全力で駆け出した。
背後から、使徒たちの怒声が追いかけてくる。
けれど、もう彼らは私たちを捉えられない。
私たちの前には、深く切り立った崖が迫っていた。その下には、激しい水音を立てて流れる、渓流が見える。
「……信じろ、ティナ!」
彼は、私の体を強く抱きしめると、躊躇なく、崖下へと身を躍らせた。
悲鳴を上げる間もなかった。
浮遊感の後、全身を叩きつけるような冷たい水の衝撃。
私たちは、激流に飲み込まれ、なすすべもなく下流へと流されていった。
意識が遠のく中、私の体を離さないようにと必死に抱きしめてくれる、彼の腕の力だけが、唯一の確かなものだった。
どれくらい流されただろうか。
次に私が気づいた時、私たちは浅瀬の川岸に打ち上げられていた。
彼の腕の中では、短剣で切りつけられたのだろう、深い傷から血が流れていた。
「……っ、しっかりして……!」
私は、パニックになりそうな頭を必死で働かせ、村で買った薬草を取り出す。
震える手で、彼の傷口にそれを押し当て、マントを破って作った即席の包帯で、きつく縛り上げた。
やがて、彼がうっすらと目を開けた。
「……ティナ……無事か……」
「うん……! それより、あなたの傷が……!」
彼は、自分の腕を一瞥すると、安心したように、ふっと息を吐いた。
そして、私の頭を、優しく撫でた。
その瞳には、驚きと、誇らしさと、そして、今まで感じたことのないほどの、深い信頼の色が宿っていた。
「……助かったよ、ティナ」
彼は、心からの声で言った。
「君がいなかったら、俺は今頃、あそこで終わっていた。君はもう、俺が守るだけの存在じゃない。……俺の、命を預けられる、最高の相棒だ」
その言葉に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
私は、彼の隣に立つことができた。
彼を、守ることができた。
その事実が、どんな賞賛よりも、私の心を強く、そして温かく満たしてくれた。
私たちは、互いの存在の大きさを、この絶体絶命の危機の中で、改めて深く、深く、理解したのだった。
二人の逃亡の旅は、この瞬間、新たな絆と共に、次のステージへと進んでいく。
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