第32話 朱鯉池を再び

そこにいたのは、一匹の黒猫だった。


「……にゃ」

愛想のない声でひと鳴きすると、ボサボサに膨れた尾を立て、掃除用具置き場をするりと抜け出していく。

二人はただ、その小さくなった背中を黙って見送るしかなかった。

=====================

視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


32 -朱鯉池を再び


動物へと姿を変える龍の子を目にしたのは、これが初めてだった。

龍の力は本来、限りがない。その在り方は使い手の心象を映し、形を成すという。


もっとも、教典ではそのような先天的な力の発現を良しとしていない。

管理の及ばぬ力は、龍の力を暴走させて秩序を乱すとされる。ゆえに、後天的に学び制御できる四大元素——火・水・風・土こそが正道とされてきたのだ。

生まれながらに授かる力は”龍神の悪戯”、あるいは”世界のバグ”として軽んじられている。そこにも、どうにも釈然としないものを感じていたが……。


訓練場の隅に置かれた長椅子に腰を下ろし、ジュナは小さく息を吐いた。

(まさか、昨日更衣室で見かけたあの猫がセピアだったとは……)


だが、これで彼がどうやって学院を抜け出していたのかようやく合点がいく。

猫なら、更衣室の鉄格子のない窓を抜けられるし、龍造犬シェパードの目にも“人”としては映らなかったはずだ。


それから——。

カリオンの裏切りに、セピアの出自……思考を向けることさえもう億劫だった。

今はただ、これからのことだけに心を縫いとめておこう。


窓の外は、訓練場を照らす龍灯の光に紛れて気づかなかったが、すでに闇に沈んでいた。

日は、とうに落ちている。



♦︎♢♦︎


螺旋階段を伝う金属音にジュナは作業を止め、警戒して見上げたがすぐに手を戻した。

黒猫が鍵を咥え、その後ろをフリージアが駆け足で降りてくる。


「少し強引ではありましたがこちらはなんとかなりました。それで、その……ジュナ様は何をなさっているのです?」


フリージアに声をかけられる前に作業を終わらせておきたかったが、失礼にならないよう声だけは穏やかにかけ、手は動かし続けた。


「外はもう真っ暗だからね。訓練場の龍灯を少し拝借して、手で持たなくてもいいように額に固定する装置を作っているんだ………、

っとよし!出来た。フリージアさん確かめてくれ」


額に合わせた小さな金属フレームに、柔らかい革と布を巻きつけ、軽く調整しながら龍灯を固定する仕組みを組み上げていた。硬重な龍石を支えるため、紐だけではなくフレーム全体で重さを分散させる構造になっている。


最後の仕上げとして額に装着し、フリージアさんにも頭を振ってズレないか確認してもらった。


「おい、お前たち何やってんだ。さっさといくぞ」


人の姿に戻ったセピアが、鍵を錠前に差し込んでいる。

かち、かち、と苛立ったように何度も回す音が響いた。


「フリージア、本当にこの鍵で合ってるのか?錠が外れねぇぞ」


振り返るセピアに、フリージアは額の龍灯を軽く傾け、光を揺らすように応じた。


「その錠前は、時計回りに三度、次に反時計回りに二度回さないと開きません」


「本当かよ?」


フリージアは検査のために龍灯をいっそう激しく振り続けている。

セピアはその様子を一瞬だけ疑わしげに見やったが、言われた通りに鍵を回すと、

——ガチッ。

錠が外れ、扉が剥き出しになった。


「……マジかよ」


扉が開くと風が吹き込み、かき消されそうになったセピアのぼやきが、かすかにジュナの耳に届いた。


冷たい風が肌を打ち、髪をかき上げる。

風は強いが、夜空には衛星の月が冴え冴えと輝いて教会の影を長く地に落としていた。白い光が道の輪郭を照らし、淡く揺れる影が足元に寄り添ってくれている。

どうやら、龍灯をつけなくても朱鯉池までは辿り着けそうだ。


「よかった。

龍灯をつけたままだと教会の守視官に見つかる危険があったからね」


明るく声をかけようとしたものの、喉が強ばって声が震えた。

視線をそっとフリージアとセピアに向け、二人の目を順に捉えながら胸の奥で小さく息をつく。

月明かりの下、三人の影がゆっくりと重なり合う中で、覚悟を固めるように告げた。


「行こう」


頷いたセピアはふたたび黒猫に姿を変え、尾を立てて先導するように軽やかに駆け出した。ジュナとフリージアは足音を立てないよう細心の注意を払い、慎重にその後を追いかける。

龍造犬シェパードの気配がない。息を潜めて周囲をうかがうが、追ってくる足音も鳴き声もない。

どうやら、堂々と扉を出たおかげで正規の外出だと見なしてくれたようだ。


朱鯉池に近づくにつれ、夜風に混じる葉擦れの音が次第に大きくなって意識が研ぎ澄まされていく。猫が砂利を小さく跳ねながら進む足音も、フリージアの歩幅も、呼吸のように自分の感覚と重なり合い、微かな振動となってジュナの体に伝わってくる。


小さな柵門を飛び越えながら、フリージアは前を行く猫に声をかけた。


「セピア、崖を下る前に蔵によってください。あの蔵には礼拝者用の衣服が置いてあります。そこで着替えましょう。今の制服姿は夜とはいえ目立ってしまいます」


朱鯉池にたどり着いたが、一帯は完全な闇に沈み、目では何ひとつ捉えられない。


それでも、

――ぽちゃん、と水面が小さくはねる音がした。

おそらく朱の鯉が跳ねたのだろうが、どこか異様な気配が闇の奥から忍び寄ってくるようで胸の奥がひやりとする。

あまり長く留まりたい場所ではなかった。


「……真っ暗だな」


ジュナは小さく息を吐き、そっと額の龍灯に光をともした。

隣ではフリージアが点灯に手間取っている。龍力の調整がうまくいかないのか、額に手を当てたまま眉を寄せていた。

「貸して」

ジュナはそっとフリージアの額に手を添え、代わりに光を灯す。


柔らかな光が広がり、欄干の赤い一本橋を照らし出した。

その先、南の方角に目的の蔵があるはずだ。

ジュナがそちらに視線を向けた瞬間、闇の中から黒い影が突進してきた。


「うわっ!」

突風のような勢いで押し倒され、昼に降った大雨で湿った地面に背中が冷たく沈みこむ。すぐ頬にざらりとした舌の感触が走り、思わず目を見開いた。


「ふふ。この子、訓練場を出てから私たちの後ろをずっと付かず離れずついてきていたんですよ。本当に賢い龍造犬さんです」


フリージアの嬉しそうな声が闇の中に柔らかく響いた。

のしかかるムギを押しのけ、ジュナはむすっと立ち上がる。


「び、びっくりしたじゃないか!ムギ!

……それにフリージアさんも人が悪いですよ。僕に知らせてくれたらよかったのに」


「ごめんなさい。ジュナ様なら、言われずとも気づいていると思っていましたから」


黒猫のまわりをはしゃぎ回るムギを、猫は尾を右へ左へと煩わしげに揺らしてやり過ごしている。

そんな二匹を先頭に、ジュナとフリージアは池の縁をたどって蔵へと向かった。


歩きながら、フリージアは視線を伏せたまま口を開く。


「カリオン先生……いえ、あの男から返せずにいたものですから」


そう言って、懐から古びた鍵を取り出し蔵の方を指さした。

たどり着くと錠前に鍵を差し込み、かちりと小さな音を立てて扉が開く。

振り返ったフリージアは、穏やかな笑みを浮かべた。


「開きました。どうぞ、お先にお入りください」


その足もとで、黒猫だったセピアがふいに姿を変えた。

「よう」と低く声をかけられたムギは、人の姿に戻った彼を見上げ、

琥珀の目をまん丸にして固まっていた。



蔵の中は、古びた外観とは打って変わって手が入れられた気配がある。

不釣り合いなほど立派な暖炉が増設されており、そこにジュナは龍力の火でぱちりと灯す。

ほの明るくなった室内には、奥に簡素な机と椅子があり、上には帳簿や封を切られていない書簡がいくつか置かれている。

壁際の木棚には青を基調とした礼服、カーキ色の丈の長いズボンやタオルが整然と並び、かすかに布と紙の匂いが混じり合って漂っている。


ここは――どこか、隠された私室のようにも思えた。

つい視線が、灯の届かぬ棚の奥や、梁にかけられた鎖へと滑っていく。


「ここもカリオンの部屋のひとつだ」


セピアはつま先で立ち、木棚の礼服を無造作に引っ張りながら鼻で笑った。


「何度かこの中を探ったが、奴の腹の底を暴くもんは結局どこにもなかった。

いいか、ジュナ。これから向かうのは濁った水の底に閉じこもって表面だけを取り繕ってきたような奴の根城だ」


セピアは片手で礼服をつまみ上げ、ぞんざいに放り投げた。


「探検気分で浮かれても構わねぇが、命だけは落とすなよ」


ジュナは慌ててそれを受け止めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る