第2話 追跡
八月の陽は、地面を白く灼き、空気の層を幾重にも揺らめかせていた。舗道は息をするように熱を吐き、そこを行き交う人々の影は、溶けた墨を垂らしたかのように薄く滲んでいる。
その中を、制服の男が歩いていた。真夏の熱をものともせず、背筋を糸のように真っ直ぐに保ち、歩調は一分の狂いもない。揺れない肩、微動だにしない頭部——その不自然な均衡が、かえって異様さを際立たせている。
狭間は、十数メートル後方を進んでいた。
靴底は薄いラバー製で、アスファルトを舐めるように音を殺す。歩幅は標的よりわずかに短く、間を一定に保ちながらも、群衆の流れに紛れるために時折ごく自然に立ち止まる。信号待ちや看板の影を利用し、その姿を遮る。
体の軸は常に地面に垂直で、腰から下だけが静かに滑るように動く。上半身は、呼吸とともに微かに上下する以外、ほとんど揺れない。まるで影が自ら形を変えて進んでいるかのようだった。
視線の運びも、狭間の武器である。真正面から標的を捉えることはせず、反射や影絵を使い、視野の端でその動きを読む。路面に落ちた影の長さや向き、通行人の肩越しに垣間見える腕の振りから、歩速と進行方向を計算する。
時折、風に乗って運ばれてくる匂い——乾いた布地、皮革、そしてほのかな金属の香り——が、標的の位置を確かに示していた。
周囲の音は蝉時雨と遠くの工事音が混ざり合い、一定のざわめきとなって耳に流れ込む。その中で、狭間は自分の呼吸を限りなく浅く整え、胸の上下を外からはほとんど見えぬほどに抑え込んでいた。
肺の奥に溜めた空気を少しずつ入れ替えるその呼吸法は、数分以上続けても苦しさを感じさせない訓練の賜物だった。呼吸を制御することで、足の運びも一層静まり、周囲の振動に溶け込む。
道路脇の植え込みをかすめるとき、狭間は腰をわずかに落とし、影の中を滑るように進んだ。車道からの照り返しが途切れ、代わりに湿った土と葉の匂いが鼻腔を満たす。葉擦れの音に歩調を重ねれば、足音は完全に消える。
そして再び舗道へと出るときには、群衆の歩速に合わせて自然に姿を戻す。何事もなかったかのように。
十数メートルという距離は、尾行において決して広くはない。だが狭間にとっては、標的が振り返らぬ限り、それは十分な余裕であった。
背後から注ぐ視線の重みを相手に悟らせぬこと——それが彼の最も得意とする術だった。人の視覚は、真正面の動きや音には敏感でも、背後の静寂には驚くほど鈍い。その盲点を突くことにかけて、狭間は熟練していた。
やがて制服の男が、住宅街へと抜ける細い路地へと差しかかった。周囲の人通りが途絶え、空気は急に静まり返る。
蝉の声が頭上の木々から降り注ぎ、足元には薄い影がまだらに落ちている。
狭間は立ち止まることなく、その影を踏み分けながら距離を保ち、男の背を視界の端で捉え続けた。
熱気は依然として肌を焼くようでありながら、その中で狭間の動きだけが、不思議なほど温度を持たぬ影となっていた。
制服の男はその中ほどで歩を止め、ゆるやかに身体を半ば捻って振り返る。顔の向きこそ中途半端だが、その目は背後ではなく、少し斜め下の位置を正確に射抜いているように見えた。
狭間はわずかに首を傾け、近くの壁面に視線を移す。反射する窓ガラスに、標的の動きが細く映り込んでいる。表情は変わらない——しかし、その硬さが生物のものではないことを知っている。
その時、狭間の胸中で、冷たい水面に石を投げ込んだような波紋が広がる。
——間合いを詰めた。
制服の男の腕が、不自然なほど滑らかに持ち上がり、来訪者の右腕を掴む。掴んだ手の白さは、血の通いを感じさせぬ。
指が締まると同時に、来訪者の身体が一歩引き寄せられる。その速度は、獲物を捕える獣のように一気呵成であった。
風が裂けた。
制服の男の腕が、音もなく閃く。
来訪者の腹部に、乾いた衝撃が叩き込まれ、身体がくの字に折れるのが見えた。背が壁に弾かれ、路地に響く鈍音が空気を震わせる。
その動きの速さは、人間の反射ではない。第七世代の肉体だ——狭間はそう確信した。
間合いは二歩。
手はすでにホルスターにかかっている。引き抜いた金属の冷たさが掌を走り、照準は肩口へ吸い寄せられる。
「大丈夫か!」
引き金を絞ると、閃光と衝撃音が路地の薄闇を裂いた。
制服の男の身体がわずかに仰け反り、掴んでいた手が離れる。だがその顔は、笑みをわずかに引き上げ、温度のない瞳でこちらを見返してきた。
狭間は躊躇なく踏み込む。左手で来訪者の肩を押しやり、背後に退かせる。同時に杭を逆手に抜き、標的の懐へ滑り込む。
しかし、銀の刃が届く寸前、標的は壁を蹴り、影の奥へと跳び退いた。
残されたのは、肩で荒い息をつく来訪者の姿だけだった。
「立てるか。」短く告げ、返答を待たずにその腕を肩にかける。
路地を出るまで、一歩ごとに周囲の音と光を確認しながら、狭間は歩を進めた。
背後の闇は、何事もなかったかのように再び静まり返っていた。
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