第3話 退避

 薄いカーテン越しに、午後の光が室内に淡く滲んでいた。

 狭間は、椅子に腰を下ろし、ベッドの上の男を静かに見守っていた。目はまだ重そうだが、呼吸は安定している。胸郭の動きと脈の速さからすれば、命に別状はない。


 路地から運び込んでから二時間。氷嚢で腹部を冷やし、頭部の打撲には消毒と軽い圧迫。出血はない。

 手入れされた救急箱を足元に置いたまま、狭間はその中身に一瞥をくれた。薬品の並びは、いつでもすぐ使えるよう整理されている。


 男がわずかに身じろぎ、天井から視線を巡らせた。瞼が完全に開くのを見計らって、狭間は口を開いた。

「目が覚めましたか。」


 短い沈黙のあと、かすれた声が返ってくる。

 名を問われ、狭間は簡潔に答えた。「狭間と言います。……あの路地で倒れたあなたを運び込みました。」


 表情には警戒が残っている。予想の範囲だ。助けられた事実と、なぜ関わったのかという疑念。その次に来る問いも、狭間は読んでいた。


「あの警察官は、何者だ」

 狭間は一瞬だけ視線を伏せ、言葉を選ぶ。

「——我々の間では“グール”と呼んでいます。死体を加工し、使役する者たちがいて……詳細は今は省きます。」


 眉がわずかに動く。

「グール?」

「死んだはずの人間が、不自然な形で動き出す。……あなたが死体安置所で見たのは、そういうものです。」


 これ以上は開示しない。必要な情報だけを与える。

「じゃあ、あの警察官は……」

「詳しくは話せません。ただ、あなたにとって安全な存在ではないことだけは確かです。」


 視線が部屋の隅に流れ、床の氷嚢を見つける。

 狭間は軽く頷いた。

「打撲と軽い脳震盪です。しばらく安静にしていれば大丈夫でしょう。」


 やや間を置いて、核心に近い問いが来る。

「……どうして俺を助けた」

「死体安置所で“それ”を見たのは偶然でしょう。しかし、見た者は狙われる。放っておけなかった、それだけです。」


 余計な理由は挟まない。沈黙をひとつ置いて、椅子から立ち上がる。

「まだ本調子ではないはずです。今は外に出ず、ここで休んでください。」


 了承の言葉を受け取り、狭間は冷めたコーヒーを机の端へ寄せ、代わりに水の入ったコップを差し出す。

 夕暮れが街を沈ませつつあり、窓際の空は橙と群青が滲んでいた。


 グラスを置く音が静まり、次の問いが落ちる。

「で……俺は、これからどうすればいい?」

「まず、今夜は外出を控えてください。特に事務所には戻らないことをおすすめします。そこが最も分かりやすい場所だからです。」


 驚きと疑いが混じった目。

「……まるで、俺がもう狙われてるみたいな口ぶりだな」

「まるで、ではありません。すでに“向こう”は、あなたを標的に定めています。」


 空気がわずかに重くなる。狭間は机の端から手を離し、玄関の方へ視線を送った。

「今日はもう日も暮れます。動くのは明日にしましょう。」


 安全な場所など、この街には長くはない——そう告げずとも、夕景がそれを物語っていた。


***


 朝の光が障子越しに差し込み、室内に淡い白さを広げていた。

 台所から漂う出汁と炊きたての米の香りが、昨夜の湿った空気を塗り替えていく。焼き魚の皮は香ばしく、卵焼きの甘い匂いがそれに重なる。


 湯飲みを手に、狭間はベッドに目を向けた。昨日までの硬い呼吸は落ち着き、顔色も戻っている。あれだけの衝撃を受けながら、一晩でこれだけ回復するのは体力のある証拠だ。——だからこそ、放っておけば動き出すだろう。


「おはようございます。よく眠れましたか。」

 声の調子は普段通りだが、意図的に硬さを一段だけ緩めた。昨夜は警戒心が勝っていた。今日は少しでも話を引き出す必要がある。


 礼を言われ、食事を見やった相手が「まさか朝飯まで」と口にする。

「食事は大事です。こういうときほど、きちんと摂らないと判断を誤ります。」

 その言葉の裏には、昨夜の戦闘の光景がまだ残っていた。判断の遅れは死に直結する——それを知らない者に説明するには、こういう言い回しが一番穏やかだ。


 湯飲みを置き、本題に入る。

「さて……あなたには、しばらく身を隠すことをおすすめします。」

 当然、質問が返ってくる。

「どうやって隠れりゃいい」——それは予想通りだ。

「たしかに、その通りです。」

 短く肯定し、間を置く。


 この先の言葉は境界線の上だ。昨夜の“グール”だけでは、状況を理解できまい。だが一気に全てを明かせば、動揺と反発を招く。

「相手は——人間ではない可能性があります。彼らは“ヴァンパイア”と呼ばれる存在で、私たちの社会とは別に、長い歴史を持つ世界を築いている。」


 箸が止まり、視線が上がる。懐疑の色はあるが、完全な否定ではない。

 さらに一歩踏み込む。

「彼らは“アーク”と呼ばれる共同体に分かれて暮らし、互いに縄張りや掟を守っている——表向きは、です。」

 “表向き”という言葉に、自分でもわずかな棘を感じた。何百年も続く秩序など、脆い紙細工だ。


 やがて、探るように問われる。

「昨日の警察官、何者なんだ」

 答えは重い。

「“ヘカトリカ”と呼ばれる連中です。」

 口にするとき、喉奥に金属の味が走った。あの一派は常に裏を行く。掟も均衡も顧みず、痕跡を残さず人間社会に潜る。遺体を“処理”するのも、彼らにとっては日常だ。


 「あなたが死体安置所で目にしたこと……彼らにとっては、知られて困る類のものです。だから、あなたは狙われた。」

 これは事実だ。だが本当の危険は、この男が既に“関係者”として刻まれてしまったことにある。


 次に来た問い——「偶然いたのか」

「偶然ではありません。」

 と答える。

 組織名は伏せたが、役目は告げた。

 昨日は別件で安置所を監視していた。だが、この男が現れた瞬間、優先順位は変わった。


 ふと、彼の視線がわずかに遠くを見る。表情の陰影から、過去を掘り返していると分かる。

 ——その奥に何があるのか。狭間は踏み込まない。ただ、今の段階で最も重要なのは、無謀な行動を抑えることだ。


 やがて「海外ってのはどうなんだ?」と問われる。

 一瞬、茶を口に含み、間を作る。

「相手の手が届きにくい場所は確かにあります。ですが、どこであれ完全な安全はありません。動くなら——慎重に。」

 本心では、すでに動くつもりだと察している。声色を助言の範囲に留めたのは、いま制止しても意味がないからだ。


 会話が途切れ、盆に食器をまとめる。湯呑を重ねる音を極力抑えるのは癖のようなものだ。

「……重ねて言いますが、深入りは禁物です。」

 振り返ったとき、自然に口元が緩んだ。だが笑みに混じる警告の芯は隠さない。

「相手は人間じゃない。あなたがこれ以上踏み込めば、引き返せなくなる。」


 返ってきた「分かった」という声に、表面上は納得の色があった。

 だが——狭間には分かる。もうこの男の中で、歯車は回り始めている。


***


 男が玄関を閉め、足音が階段を下りて遠ざかっていく。わずかな靴音が消えた後、部屋には再び静寂が落ちた。

 机の上にはまだ湯気の残る茶碗が置かれ、淡い香りだけが空間に漂っていた。


 狭間は窓際に立ち、外を見やる。夏の日差しは強く、街路を歩く人影は汗を拭きながら足早に過ぎていく。——何も知らない世界。

 その中で、ひとりの人間が昨夜を境に「向こう側」に触れてしまった。


 (もう引き返せないだろうな……)


 口に出さず、心の底で呟く。

 彼の中にある執着——死んだ恋人か、あるいは過去の欠片か——それが行き先を決める。止められるものではない。


 狭間にできるのは、道を逸れて奈落に堕ちぬよう、わずかに手を添えることだけだ。

 だが、添えるその手が、果たして救いになるのか、それともさらなる深みに導くのか……。


 湯飲みを片付けながら、狭間は小さく息を吐いた。

 「監視だけの任務」——そのはずが、また一つ、余計な縁を抱え込んでしまった。

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