『NxI』スピンオフ・狭間編
Paul_Cognac
第1話 兆し
東京湾の外れ、夜の潮は煤けた鉄の匂いを孕み、かすかに油の膜を引いて、波間を鈍く光らせていた。
風は低く湿って、岸壁に打ち付ける波をやわらかく攪じる。遠く、貨物船が喉の奥で呻くように汽笛を鳴らし、その声が港の骨組みをくぐり抜けてくる。
狭間は、ひとつの影のように、停泊中のクレーンの基部に身を凭(もた)せて立っていた。短く整えた黒髪は潮風に撫でられても乱れず、涼やかな目は暗闇に沈む輪郭を寸分違わず追っている。
細身の体躯は無駄な力を抜きつつ、いつでも踏み込めるよう重心を低く保っていた。指先は上着の内側、革製のホルスターにかけられたまま、冷たい金属の感触を確かめている。
——来る。
視界の端で、黒が黒を押し分けるような揺れがあった。人の形をしていながら、歩みは獣のそれに似ている。鼻を刺す腐肉の匂いが、潮の香に混じって立ちのぼった。
グール——生の温もりを奪われ、骨と皮だけになった哀れなものどもが、二つ、こちらに向かって這い出してきた。頬は削げ、眼窩は暗い穴と化し、それでもなお涎を垂らす口元には人間の名残が張り付いている。
狭間は一歩、音もなく引いた。瞳孔が微かに開き、相手の脚の運び、肩の傾き、指の曲がりを測る。
次の瞬間、乾いた破裂音が夜気を裂き、手前の一体の膝が砕け散った。崩れ落ちるその影の上を、狭間は滑るように踏み越え、もう一体の喉元へ逆手に構えた刃を深く押し入れた。
細い呼気とともに、月明かりが血の粒をひとつひとつ銀に染める。濡れた匂いが足元から立ち昇る中、刃を引き抜くと同時に、背筋を撫でる冷たい気配が走った。
振り返れば、そこにはひとりの男——いや、人に似た何かが立っていた。目は夜の水面のように底知れず、口元にかすかな笑みを含む。
狭間が間合いを詰める前に、その影は潮風の向こうへと溶けて消えた。
波の音だけが、崩れた骸と彼の耳を満たしていた。潮と血の混ざった匂いは、港の冷たい空気に溶けて、どこか甘やかに鼻をくすぐる。
狭間は低く息を吐き、腰の無線機に手を伸ばした。
「——下級は処理済みだ。上は……逃した。」
返ってきたのは短い応答と、次の指示ではなかった。静まり返った港を背に、狭間は銀杭をホルスターに戻す。
あの一瞬、闇の中に見た眼差しが、任務の輪郭をわずかに変えた気がした。
足音を殺して歩き出す彼の背を、月が冷たく照らす。
次に向かうのは、死体安置所——そこからまた、別の影が立ち上がるのを、狭間はもう知っていた。
***
港の夜から、幾日かが過ぎた。
狭間は、警察署の裏手に隣接する死体安置所を張り込んでいた。昼も夜も、建物の奥で出入りする者は限られている。その中で、ひとりだけ——制服をまとった、しかし歩みも背筋も人間のそれではない男。
骨格の奥に別の生き物を飼うような、あの姿勢の硬さ。耳の奥に残る、港で嗅いだ腐鉄の匂い。それは間違いなく、ヘカトリカの第七世代。
張り込み三日目の午後、白布をかけられた担架が二人の職員によって運び込まれた。
狭間は陽炎の立つ舗道の向こう、ガラス越しにその輪郭を追う。布越しに膨らむ肩や胸の線が、わずかに痙攣する——死の沈黙の中に、蠢くものがある。
近くをかすめる風が、その匂いを運んできた。血と腐肉が熟れて、甘く変質する気配。
——始まっている。
グール化の兆しは、皮膚の色、硬直の具合、布越しのわずかな呼吸にも似た動きが物語っていた。
翌日、空は濃い硝子色の青に焼け、地面は陽炎に揺れていた。時計は十四時を少し回った頃。
狭間はビルの陰から安置所の出入口を見据える。
見慣れぬ男が一人、正面玄関をくぐった。年の頃は四十前後、少し無造作な黒髪。動きに無駄はないが、腰の重さが何かを抱えていることを示している。
狭間にとっては、それはただの「目新しい来訪者」に過ぎなかった——その瞬間までは。
廊下の窓越しに、あの制服の姿があった。背筋を弓のように張り、表情を貼り付けたままの男。港で嗅いだ、あの血と腐肉の匂いが脳裏に甦る。ヘカトリカの第七世代。
胸の奥で、介入の算段が静かに組み上がる。狭間はハンドセットを取り上げ、短く申請を入れた。
「対象接触。許可を——」
数秒後、冷えた声が耳に戻る。
「まだだ。動きがあるまで監視を続けろ。」
指先の熱を、革張りのハンドルがじわじわと吸い取っていく。
やがて、玄関からあの男が出てきた。先ほどよりも足が速く、顔はわずかに強ばっている。
狭間は視線だけでそれを追い、数呼吸の後、もう一人の影が現れる。制服の警察官。
その眼差しは、陽炎を割って伸びる刃のように冷ややかだった。
狭間はドアを押し開け、歩き出す。
日差しの白さが、アスファルトの上で揺れる背中を際立たせる。
——追うべき時が来た。
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