第1話 (2)

 僕が暮らすこの国は、ヴァルナ王国という。

 地図で見れば、大陸の北西の端に小さく貼りつくようにして存在している。南は山脈、北は海。山は夏でも雪が残り、海は冬になると鉛色に荒れる。それでも、季節ごとの恵みはこの国を豊かにしてきた。


 王国の広さは、馬で東から西まで三日もあれば走り抜けられるほどだ。だが、港と鉱山、肥えた平原を抱えているおかげで、暮らしは安定している。港からは海産物や南方の香辛料が届き、山からは金属や木材が下りてくる。街道を行き交う荷車は途切れず、商人たちの声で城下町はいつもにぎやかだ。


 父の話では、隣国との間で小競り合いがあった年もあるらしい。しかし、僕の記憶にある限り、この国に戦の影が差したことは一度もない。城門の兵士たちも、剣より昼寝のほうが似合っている。


 魔法はこの国では珍しいものじゃない。

 明かりを灯す、壊れた道具を直す、怪我を癒やす――そんな生活の中で使う小さな魔法は、学校で習えば誰でも少しはできるようになる。けれど、城の大広間を飾る巨大な石像を一晩で削り出すような力を持つ者はごくわずかで、そういう人は王や貴族のもとに召し抱えられる。


 僕の暮らす街は、王国でも特に人の出入りが多い。

 石畳の通りには二階建ての木造家屋や白壁の商館が並び、道沿いには露店がひしめく。朝は港から魚や貝を積んだ荷車が入り、昼には山から鉱石や木材を積んだ馬車が下りてくる。遠くの国から来た商人たちは、聞いたことのない言葉で取引し、異国の布や陶器を並べて客を呼び込む。


 そんな景色を見て育ったせいか、僕は子どものころからこの国の外に憧れを抱いてきた。

 港で耳にする旅人の話、見たこともない形の果物、聞き慣れない歌――それらはすべて、まだ知らない世界の匂いを運んでくる。

 けれど、僕は一度も国境を越えたことがない。

 生まれて十八年、この街と港と、その周囲の村々が僕の世界のすべてだった。


 昼下がり、僕は荷物を抱えて市場を抜けた。

 通りの向こうから、聞き覚えのある声がする。

「おい、また港に行ってたのか」

 振り返ると、幼なじみのエディが大きな籠を背負って立っていた。彼の家は宿屋を営んでいて、客の荷物運びやら馬の世話やらで、いつも忙しい。

「朝から姿が見えないと思ったら、また物見遊山か?」

「見たい物があったんだ」

「どうせ変な古道具だろ」

 エディは呆れたように笑い、籠を背負い直した。


 僕たちは同じ道を歩きながら、他愛ない話をした。

 港に入った新しい船のこと、昨夜の酒場で誰が歌を外したか、そんな話ばかりだ。

 道の脇では、旅芸人が笛を吹き、小さな人だかりを作っていた。鮮やかな衣装を着た彼らは、南の方から来たらしく、聞き慣れない言葉で何やら掛け合いをしている。


「なあ、お前も一度くらい国の外に出てみろよ」

 僕が言うと、エディは肩をすくめた。

「馬鹿言うな。俺はここで十分だ。旅なんて、金も時間も食うだけだぞ」

「でも、見たことのない景色や、会ったことのない人間に会えるんだ」

「……お前らしいな」

 彼は笑って手を振り、路地へと消えていった。


 夕暮れ時、家に戻ると母が炉端でスープを煮ていた。

 湯気の向こうで、母は振り返らずに言う。

「港で何か見つけたの?」

「……ただの荷物だよ」

「そう」

 母はそれ以上聞かなかったが、その背中は少しだけ楽しげに見えた。


 夜になり、外に出ると、星原が空いっぱいに広がっていた。

 光の川は、まるで大地の果てへ導く道のようだった。

 僕はしばらく立ち尽くし、その先にあるものを想像した。

 きっと、この国の外にも街があり、人がいて、星を見上げている。

 そう思うと、胸の奥がざわめいた。

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