第1話 (1)

 朝の空気は、夜の名残を少しだけ残している。

 石畳を踏みしめると、夜露を含んだ靴底が冷たく感じられた。


 市場へ向かう道すがら、焼きたてのパンの匂いが風に乗ってくる。角のパン屋では、いつものように大きな窯の前で店主が汗を拭っていた。

「おはよう、坊や。今日も朝から出かけるのかい」

「うん、ちょっと港まで」

「港? 朝市ならもう始まってるだろうに」

「……見たいものがあるんだ」

 そう答えると、店主は意味ありげに笑って、小麦粉まみれの手で僕の肩を軽く叩いた。


 港までは歩いて十五分。途中、城壁の内側をぐるりと回る小道を抜ける。

 この街は、大陸北西部にある小国の都で、聖暦八百二十年の間、戦火らしい戦火もないまま続いてきた。父は「退屈なほど平和だ」と笑うが、僕にとっては少し物足りない。


 港に着くと、まだ朝靄が水面に漂っていた。木造の桟橋では、漁師たちが網を干し、荷車に積み込む声が飛び交っている。

 僕が見たかったのは、その荷車の中身だった。


「……やっぱりだ」

 荷車の上には、見慣れない形の金属の箱が載っていた。錆びているが、装飾ではなく何かの機械のようにも見える。

 これは遠く南の海で引き上げられたものらしい。詳しいことはわからない。港の噂好きな老人も、「ただの古代の道具だ」と言うばかりだった。


 僕がその箱を見ていると、背後から声がした。

「興味があるのか?」

 振り返ると、長い外套を羽織った旅人が立っていた。肩には小さな荷袋、腰には剣。年齢はわからないが、目が妙に澄んでいる。

「……ああ、珍しい形をしてるから」

「これは、海の底で眠っていた物だ。どれほど昔のものかは、誰も知らない」

 そう言うと旅人は、僕の横をすり抜け、港を離れていった。足取りは軽く、どこか急いでいるようにも見えた。


 僕はもう一度、金属の箱に目を向けた。朝靄の中、その表面がかすかに光ったような気がしたが――気のせいだろうか。


 港を離れる頃には、朝靄もすっかり晴れていた。

 石畳を踏む僕の横を、荷車が軋む音を立てて通り過ぎていく。車を引くのは、山から下りてきた逞しい茶毛の馬だ。荷台には、魚の匂いがまだ残っている網や樽が積まれていた。


 通りの角にある小さな広場では、子どもたちが縄跳びをして遊んでいた。笑い声が澄んだ空気に混ざって響く。

「おーい、坊や!」

 声の方を見ると、青果屋のミーナ婆さんが手を振っていた。

「これ、持って帰りな。形は悪いけど甘いニンジンだよ」

「ありがとう。でも、今日は買い物じゃなくて――」

「知ってるさ。港の方に行ったろう? 顔に書いてあるよ」

 そう言って婆さんは笑い、僕の手に土の香りがするニンジンを押しつけた。


 市場はもう人であふれていた。

 香辛料の匂い、焼いた肉の香り、露店商人の呼び声。

 この街は海と山の交易が交わる場所だから、朝の市場は特に賑やかだ。

 すれ違う人の中に、さっき港で見かけた外套の旅人の姿を探してみたが、見当たらなかった。


 家に帰る前に、寄り道をした。

 街の外れ、小川のほとりにある小さな丘。

 ここは僕が子どもの頃から好きな場所で、丘の上からは街と港の両方が見える。

 石のベンチに腰を下ろすと、遠くで鐘の音が響いた。

 正午の鐘だ。

 丘の下を馬車が通り過ぎ、子どもたちが追いかけていく。


 風が吹いた。

 潮の香りと、山からの冷たい空気が混ざった風。

 それを吸い込むと、胸の奥まで新しい気持ちが流れ込むような気がした。

 ――いつか、この街を出てみたい。

 そんなことを考えるのは、今日が初めてじゃない。


 日が傾き始めた頃、家に戻ると父が食卓に向かっていた。

「遅かったな。港で何かあったのか?」

「別に。ただ、人が多かった」

「そうか。……明日は畑を手伝えよ」

「わかってる」

 父はそれ以上何も聞かず、スープをすすった。僕も向かいに座り、焼きたてのパンをちぎる。


 窓の外には、ゆっくりと夜が降りてきていた。

 遠くに見える港の灯りが、星原の下で小さく揺れている。

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