今日も彼らは推しを押す

職場のデスクに肘をつきながら、サボって推しの投稿を眺めていた。

どうにも、仕事のメールを処理する気分じゃなかった。

画面を流れるのは、いつもと変わらぬリズム。

推しの最新ポストの感想が延々と連なり、言葉はほとんど同じ。


「尊い」

「供給助かる」

「今日も生きられる」


聞き慣れた単語の並びは、興味のないBGMのように耳に入らない。

それでも俺は眺め続けている。見ないと取り残されるような気がするし、見ても何も得られないことも分かっている。

退屈の最中に少しだけ針を刺すような刺激が欲しい。そんなときに出会ってしまった。


見覚えのあるアカウントだった。

推しへのリプを踏んでまわる「リプいいねオタ」。

今日も変わらぬ速度で、点々と足跡をつけている。

どうでもいいはずなのに、気づけばプロフィールを開いていた。


そこに、一枚の写真があった。昨日の投稿らしい。

夜の街を背景に、男と女が並んで笑っている。

肩と肩が触れ合っていて、距離は近い。

投稿は「散歩」とだけあった。


……彼女が、いる。


思わず呼吸が止まった。

その瞬間、自分の中で何かの勝敗が決まった。

勝手に見下していた相手に、勝手に負けた。

俺が築いてきた距離の理論も、棚にしまった「お前とは違う」も、その写真一枚で崩れる。

彼は彼女と笑っていて、俺は今日も机に肘をついている。

差はただそれだけ。けれど、その「それだけ」が致命的だった。


午後の業務は頭に入らなかった。

ディスプレイに映る文字がかすんで、気づけばマウスを持つ手がじっと汗ばんでいる。

終業のチャイムが鳴ると同時に、急いでパソコンを閉じて、逃げるように会社を出た。


帰宅途中、コンビニに寄る。

棚に並べられた雑誌の表紙が目に入る。


「恋人と行きたい夜景スポット」


思わず視線を逸らした。

俺には関係のないページだと分かっているが、心の奥で何かがちくりと痛んだ。


アパートに戻ると、靴も揃えずに部屋に入った。

薄暗い部屋の中で、机の上のスマホがやけに明るく見える。

起動させれば、すぐに推しの笑顔がそこにある。けれど、指が動かない。

代わりに冷蔵庫を開け、コンビニで買った缶チューハイを一本取り出した。

プルタブを引く音が、やけに大きく響く。


一口飲んでから、ようやくスマホを手に取る。

タイムラインは何も変わっていない。

推しの動画に群れが湧き、誰かのリプにいいねが集まり、例のアカウントは今日も点を打っている。

世界は変わらない。変わらないのは分かっているのに、胸の内側がざわつく。

何をしても埋まらない隙間が、そこにある。


気がつけば声を出していた。理由なんてない。

ただ喉の奥から漏れた叫びが、狭い部屋に跳ね返る。

次の瞬間、隣室の壁を拳で叩くような音が返ってきた。


「…せぇぞ!」

壁ドンだ。


木造アパートは壁が薄い。俺の声は隣人に届いてしまったらしい。

胸の奥がひどく縮こまる。このまま丸まり、グチャリと死んでしまいたいとも思った。

恥ずかしさと虚しさと、どうしようもない感情がぐちゃぐちゃに混ざる。


布団に倒れ込み、天井を見上げる。木目が歪んで見える。

息を整えようとしても、胸の鼓動は早いままだ。眠れる気はしない。

目を閉じても、彼と彼女の笑顔が浮かんでくる。

それを消そうとしても、推しの顔が現れる。

推しは笑っている。群れも笑っている。笑っていないのは、俺だけだ。


夜が更けていく。時計は見ない。見たら時間が減るだけだ。

暗闇の中で、スマホの画面がまた光る。新しい通知だ。

見なくても分かる。推しの投稿か、それに群がる声だ。


俺は布団の中で小さく息を吐く。

明日になれば、また同じ光景が広がっているだろう。

群れは群れで、素直に推す。

彼は彼女と並んで推す。

そして俺は俺で、今日も推すのだ。


なぜか眠れないまま、朝が近づいていく。


――今日も彼らは推しを押す。

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