ときどき、水曜日に
西しまこ
とろとろ
あの人とは水曜日に会う。
毎水曜日ではない。都合がいいときの水曜日。
あの人が、あたしに小声で言う、「今日、大丈夫?」、あたしは絶対に断らない、「大丈夫です」「じゃあ、いつものところで」「はい」、短いやりとりを済ませると、あの人はすぐに自席に戻る。
あたしは彼を目で追う。でも、すぐにパソコンの画面に目を落とす。バレてはいけない。絶対に。でも、嬉しくて嬉しくて、あたしは急いで仕事をする。そして、夫と子どもたちに「今日は仕事が長引くから、帰るのが少し遅くなる」と連絡を入れる。ああ、仕事が終わるのが待ち遠しい。こっそり横目で見る。なんて涼やかな目元。やわらかそうな髪。眼鏡も似合っている。あんな素敵な人があたしを誘ってくれる。嬉しくてたまらない。パソコンを打つ音が音楽を奏でているみたい。ああ、早くそのときが来るといい。
待ち合わせのコーヒーショップであの人を待つ。待つ時間さえ、愛しくてたまらない。コーヒーを一杯飲み終わったところで、彼が来る。「待たせちゃった?」「そんなことないです」「もう、行く?」「はい」あたしたちはすぐにホテルに行く。
部屋を適当に選んで、エレベーターに乗る。彼があたしの手を探して、握る。手を強く握ったり緩めたり。エレベーターがついて扉が開いて、肩に手を置かれる。肩が熱を持っているみたいだ。これから起こることに胸が高まる。
目的の部屋のドアを開けると、もう待ち切れずに抱き合う。キスをして、長いキスをして舌が絡まって、ああ、この人のキスは何て気持ちがいいんだろう? もっとずっとずっとキスをしていて欲しい。
ベッドに辿り着いて、倒れ込む。服が少しずつ剥ぎ取られて、彼があらゆるところを触る。あたしも彼のあらゆるところを触る。熱を帯びて、あたしは身体中がとろとろになる。熱い液体のよう。彼とあたしと溶け合って混ざり合って、マーブル模様になって、でも同じ色になって、あああたしと彼は同じ色のあたたかい液体となって、今ぐるぐるといっしょいなって、あらゆることを共有している、ふわふわしていてでもどこか高いところにいけるような感覚もあって、過去も未来も見えるような気がして、でも実際のところいましかないような気がして。
吐息が漏れる。
肌と肌が密着して、どちらの液体か分からなくてどちらの熱か分からなくて、スパークした感情もきっと同じで。ぎゅっと背中を抱き締めて爪を立てる。あたしの肌にも彼の痕跡がいくつも残る。あたしは夜一人で風呂に入り、それを眺めるのだ。そのとき、あたしは彼を思い出しまた熱くなる。その熱い思いをシャワーで洗い流して、妻と母の仮面を付けて、家族の前に出る。
あの人とは水曜日にしか会わない。
週末は夫に抱かれる。
暗い寝室で、夫がふいにあたしに触れる。十何年も変わらないやり方で安定したやり方で、あたしに触れる。パジャマは全部脱がない。下だけ。もうずっと、夫との性交では何も感じなくなっていた。どうしてだか分からない。何も感じない。夫があたしに色々言う。何となく返す。暗闇の中で。夫が気持ちよければいいと思う。暗闇の中で、あたしは週末のことを考える。食材を買いに行って、それから上の娘の靴も買わなくちゃいけない、靴が傷んできたと言っていた、そう、それから地区の会合があるから、出席しなくちゃいけない、作り置きの食材も用意しなくては、まずは買い物リストからかな、映画に行きたいけれど、行く時間あるかしら……終わったみたい、シャワー浴びてこよう。
シャワーを浴びる。温度を上げる。
どろりとしたものも、全部洗い流す。
明日は土曜日だ。でも、早く起きなくちゃいけない。娘たちの部活があるから。お弁当と水筒を用意して。そろそろテスト週間だから、勉強の進み具合を確かめないと。
シャワーから戻ると夫は健やかな寝息を立てていた。
微かな苛立ちを持って、その顔を眺める。
あたしはするりと布団に潜り込む。明日の朝も早い。眠りにつかないと。
暗くて夜の気配が強い寝室で、あたしはいつかの水曜日を想像する。
年下の上司の彼が、あたしのもとに来ることを期待する。あの人の都合のいいときで構わない。利用されていたとしても、そんなのはどうでもいい。あたしも彼を利用している。
隣から静かな寝息が聞こえる。
あたしはそっと水曜日を夢想する。そしてあの快感を再現する。溶け合ってどろどろになってふわふわして気持ちも身体も一つになって、ぐるぐるして熱くて、どうしようもないくらいただ抱き締めていたくて、泣けてしまう涙が出てしまう、それは快楽の涙で、妻でも母でもない、あたしだけの涙で、口から洩れる声もあたしだけの声で、ねえ、あたしはここにいるの、ここに、息も出来ないようなキスをして、でも甘い吐息が漏れて、ああ、何が何だか分からないような思考なんて何もないような、身体だけがあって溶け合っていて、精神はずっと高いところまで昇っていって。そして解かれる、妻から母から、あたしがあたしじゃなくなる、全ての呪縛から、苦しくてどうしようもなくて息絶えてしまいそうなそのことから。
ときどき水曜日訪れるそれが、あたしを生かしている。
妻の顔をして母の顔をして、大半を過ごす。
水曜日のそのときだけ、あたしは妻でもなく母でもなく、ただのあたしになる。
そのときをいつでも待っている。
了
ときどき、水曜日に 西しまこ @nishi-shima
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