第11章 愛で封じる夜

九月下旬。


長く続いた不安と緊張から解放されたい一心で、私は悠真と一緒に新居へ移った。


この部屋は前よりも駅に近く、築年数も浅い。

窓からは夕暮れのオレンジ色が差し込み、微かに焼き魚の匂いが漂ってくる。

二人で暮らすという事実そのものが、私にとって何よりの安心材料だった。


それでも——引っ越すまでの間、私は何度もあの女に襲われる夜を過ごしていた。

胸を貪られ、あそこを舐められる感覚に、恐怖と快感が入り混じり、

目覚めたときには、全身から力が抜けていた。

眠るのが怖いのに、どこかでその感触を待ってしまう。

そんな自分が、何よりも恐ろしかった。


精神的にも限界に近づき、

「もう一人では耐えられない」と悟ったからこそ、同棲を決めた。


ただ、引っ越しの前夜。

布団に潜り、まぶたを閉じた瞬間、耳元でかすかな声がした。


——「置いてかないで……」

その声は驚くほど切なく、胸の奥を締めつける。

目を開けても、暗闇には何もいない。

ただ、カーテンの隙間から差し込む街灯の光の中で、

窓ガラスの表面にうっすらと曇りがかかり、

そこに指でなぞったような跡が浮かんで見えた。

気づけば、心臓が耳の奥で鳴っていた。


——同居初日の夜。

狭いキッチンで二人並んで夕食を作り、食後は洗い物を分担する。

鍋を洗う水音、包丁の金属音——そのどれもが、妙に現実感を与えてくれる。


寝室に入ると、布団から漂う洗剤と柔軟剤の香りが鼻をくすぐった。

ベッドを並べて横になると、部屋の静けさが心地よく感じられる。


ふと悠真の手が、私の手をそっと握った。

その温もりが、あの冷たい指先を遠くに追いやる。


「……ねえ」

自分でも驚くほど自然に、私は悠真に身を寄せた。


幽霊が現れないように——そんなお守りのような気持ちで、彼の唇を求めた。

唇が重なり、熱を帯びた吐息が頬をなぞる。


その瞬間、視界の端に——押し入れのふすまがわずかに開いているのが見えた。

暗がりの奥に、何かが潜んでいるような気がして、目を逸らす。


背中に回された腕の力に、心の奥から安堵が広がっていく。

服越しに胸を包まれた瞬間、甘い震えが背筋を駆け上がった。

あの夜の感覚を、今度は恐怖ではなく愛情で塗り替えるように、私は彼を受け入れた。


肌と肌が触れ合うたび、耳の奥であの囁きが遠ざかっていく。

けれど——その奥底で、背徳的な熱が微かに疼く。


その夜以来、白装束の女は姿を見せなくなった。

代わりに私を満たすのは、悠真の温もりと、愛おしげな囁き声。

そして気づけば私は、幽霊にかき立てられたあの感覚を、

彼との愛の中で無意識に探していた。


恐怖は、恋に似ている。

それはやがて、私の中で静かに混ざり合い、

確かな恋へと変わっていった——。


……ただ、夜更け。

浅い眠りの中、ふと目を開けると、押し入れのふすまが再びわずかに開いていた。


その暗がりの奥で、白い袖の端が、ゆっくりと揺れた気がした。


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