第10章 新居にも忍ぶ白い影

その夜——。


薄暗い部屋の中で、私は確かに見た。


ベッドの足元に、白装束の女が立っていた。

腰まで届く黒髪は、風もないのにゆらりと揺れ、

白く血の気のない顔が、ゆっくりとこちらへ傾く。

その目は、底の見えない井戸のように暗く、

唇の端だけが、わずかに持ち上がっている。


微かな布擦れ音とともに、淡い百合の香りが鼻先をかすめた。

瞬きをした瞬間、影はすっと溶けるように消えた。


……だが、氷のような視線だけが胸の奥に突き刺さったままだった。

怖くて、佐伯悠真にメッセージを送った。


「……お願い、また泊まりに来てくれない?」

短く事情を説明すると、すぐに既読がつき、

『明日、一緒に帰ろう』

と返ってきた。


翌日の終業後、エントランスで悠真と合流する。

同じ電車に揺られ、最寄り駅に着く頃には夜はすっかり濃く沈んでいた。


駅前の定食屋。

湯気の立つ唐揚げ定食の香ばしい匂いと、味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。

他愛もない会話の合間に、時折背中を冷たいものが撫でた。


背後のガラス窓に、一瞬だけ白い影が映った気がして、

慌てて振り返る——ただの街灯の反射、と自分に言い聞かせる。

食後は駅前のコンビニでビールとつまみ、翌朝用のパンを買い込む。

バスで十数分、さらに夜道を歩く。


街灯はまばらで、虫の声と遠くの犬の吠える声が重なる。

アスファルトを叩く二人分の足音に、

もうひとつ——砂を踏みしめるような軽い足音が混じった気がした。

同時に、背後から湿った土の匂いが流れ込み、背筋がざわめく。


部屋に着くと、悠真は買った物を冷蔵庫に入れ、布団を並べた。

何気ない会話を交わしながら灯りを落とす。

——そして、その夜は、何事もなく朝を迎えた。


「ほら、やっぱり気のせいじゃないのか?」

悠真は笑ったが、その笑顔は私の胸に何の安堵も落とさなかった。


「あの人は……悠真の前には出てこないだけ」

朝の光がカーテンの隙間から差し込む中、

胃の底に重たい石を抱えたような感覚を押し殺し、私は意を決して言った。


「……お祓いとかじゃなくて……一緒に住んでほしい」

悠真は一瞬、言葉を失い、真剣な目で私を見つめる。


「……それが、一番、安心できる気がするの」

なぜそう口にしたのか、自分でも分からない。


でも——あの夜の孤独と、背後から絡みつく視線に、

そして快楽と恐怖の境目で揺れる自分に、もう耐えられる自信はなかった。


まるで、生き延びるために縋るように、その言葉を吐き出していた。

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