第9章 「置いてかないで」の囁き
八月の終わりが近づく頃、私は限界を感じていた。
夜ごとに繰り返されるあの夢——いや、夢と呼んでしまうにはあまりにも生々しい感覚。
目覚めたとき、全身に残る湿り気と痺れ。
恐怖と快感の境目が曖昧になり、自分が少しずつ壊れていく感覚があった。
どうしても、この部屋から離れなければ——そう思って、私は美希に電話をかけた。
久しぶりに聞く彼女の声は、相変わらず落ち着いていた。
けれど事情を話し終えると、短く沈黙が落ちる。
「……やっぱりね。あんた、相当深く入り込まれてる」
「入り込まれてるって……?」
「魂を、ってこと。引っ越した方がいい。すぐに」
その言葉は、迷いを断ち切る刃のようだった。
私はその日のうちに不動産会社へ連絡を入れ、条件は悪くてもいいから空いている物件を探した。
古い木造のワンルーム。駅から徒歩二十分。日当たりも悪い。
——それでも構わなかった。
とにかく、あの部屋から離れたかった。
九月の初め、引っ越しはあっけなく終わった。
最低限の荷物を運び込み、段ボールが積まれたままの部屋で、私は深く息を吐く。
——これで、もう。
けれど、その安堵は三日も続かなかった。
夜。布団に入り、灯りを消した直後。
背後から、かすかな衣擦れの音がした。
振り返っても、そこには誰もいない。
——気のせい。そう思おうとした瞬間。
耳元で、かすれるような、しかし切実な声が囁く。
——「置いてかないで……」
その響きは耳の奥で反響し、鼓膜を内側から震わせた。
同時に背中の毛穴が一斉に開き、血の気がすっと引いていく。
冷たい指先が首筋を這い、ゆっくりと鎖骨へ降りる。
ひやりとした感触が一拍遅れて熱に変わり、胸元を包み込み、揉みしだく。
——やめろ、怖い。
そう思うのに、触れられるたび、身体の奥底が勝手に疼きはじめる。
恐怖で息が詰まるのに、逃げようとした腕が、いつの間にかその指先を引き寄せてしまう。
その自己矛盾が、さらに甘い痺れを広げていく。
唇が乳首に触れた瞬間、電流のような快感が全身を駆け抜けた。
舌先が形をなぞり、吸い上げ、また舐める。
息を押し殺しても、腰がわずかに浮いてしまう。
太腿の内側に、湿った舌が忍び込み、あそこへ辿り着く。
冷たいはずなのに、触れられた瞬間から熱が膨れ上がる。
同じ場所を何度も舐め上げられるたび、耳奥の鼓動が高鳴り、理性が削がれていく。
——逃げなきゃ。
そう思うのに、もう“逃げたい”のかどうかさえ分からなかった。
怖い。
でも、その感触を手放すのが惜しい——そんな自分に戦慄する。
——意識が途切れる。
朝。
シーツは汗でぐっしょりと濡れ、あそこにも生温かい湿り気が残っている。
鏡を見ると、胸元には昨夜の愛撫をなぞるように、淡く赤紫色を帯びたアザが点々と浮かんでいた。
触れると、かすかな熱と疼きが蘇る。
引っ越しても——あの女は、確かに私のそばにいた。
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