第2章 静かな夜に潜む影

四月一日。


真新しいスーツに袖を通し、まだ硬く足に馴染まない革靴を履いて家を出た。


アパート前の細い道には、桜が数本だけ並び、淡い花びらが冷たい風に乗ってひらひらと舞い落ちる。

春の空気は、まだ冬の名残のような冷たさを含んでいた。


都心までの通勤は決して楽ではない。

バスに揺られて駅へ行き、満員電車に押し込まれ、見知らぬ人の肩越しに流れる窓外の景色をぼんやりと眺める。


けれど——初めて自分で稼ぐ給料を手にする日を思えば、その窮屈さすら新鮮だった。


配属先の本社で、同じ新入社員たちと並んで研修を受ける日々。

営業職の佐伯悠真は、その中でも自然に声をかけてくれる存在だった。

東京生まれ東京育ちで、昼休みには近くの美味しい店を教えてくれたり、帰りに一駅分歩いて他愛ない話をしたりする。

柔らかい笑顔と飾らない口調が、東京に来たばかりの私の緊張を少しずつほぐしてくれた。


仕事が始まって一週間。

私は一人暮らしのリズムをつかみ始めていた。

会社から帰れば、簡単なパスタやインスタントスープで夕食を済ませる。

お風呂に浸かり、髪を乾かし、翌日の服を用意してからベッドに潜り込む。

窓の外からは虫の声もなく、遠くで車が通り過ぎる音だけが響く。


その静けさを、当時の私は心地よいものだと感じていた——。

ただ、その静けさが、まるで誰かに耳を澄まされているかのようにも感じられたことを、わざわざ口にすることはなかった。


休日は一人で買い物に出かけ、家具や食器を少しずつ揃えていく。

駅前のスーパーへ向かう途中、小さな神社の前で足を止め、なんとなく手を合わせた。


「東京でもうまくやれますように」——それだけを願った。


その瞬間、背中をかすめた冷たい風に思わず肩をすくめる。

振り返っても、参道には誰もいない。

気のせいだと笑い飛ばしたが、その感触だけは、妙に肌に残っていた。


四月が終わる頃には、東京での生活にすっかり馴染んでいた。

夜、ベッドの上でスマホを眺めながら、地元の友人たちとメッセージを交わす。


その中のひとり、高瀬美希から

「今度、そっち遊びに行くね」

と連絡があったのは、六月に入ってからだった。

私は素直に嬉しかった。


懐かしい顔に会える喜びだけを胸に、招き入れる準備を進めていた。


——その訪問が、私の生活を大きく変える。


嬉しさに浮かれる私の背後で、その言葉を待ち望んでいた“何か”が、息を潜めていたことなど知らずに。


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