百合幽霊に愛された女

凪野 ゆう

第1章 知らぬ間に棲むもの

——最初に触れられた夜を、私はまだ忘れられない。

それは恐怖よりも甘く、快楽よりも冷たい、あの指先。

あのときから、私はもう逃げられなかった。


三月のまだ肌寒い朝、私はキャリーバッグと段ボール三つだけを抱えて、東京行きの新幹線に乗った。


窓の外を流れる、冬の気配を残した田畑と、遠くに霞む山並み。

揺れる座席の背もたれ越しに漂うコーヒーの香りが、胸の奥をかすかにざわつかせた。


名前は——浅見梨花、二十三歳。

地方都市で生まれ育ち、大学まで地元で過ごした私が、ついに一人で都会に出る日だ。


就職先は都内の商社、本社の事務職。

緊張と期待がせめぎ合う中、それでも心の中では「やっと抜け出せる」という解放感が勝っていた。


ネットで見つけた物件は、都心から電車で四十分、駅からさらにバスで十五分、築四十年の古アパート。

けれど家賃は驚くほど安く、写真では内装が新築同然に見えた。

「安さが正義」——そう信じて疑わなかった私は、多少の不便や古さなど気にも留めなかった。


霊感など皆無で、古い物件が避けられる理由すら知らなかったのだ。

バス停から歩くこと十五分。

坂道を登るたび、背中の荷物がじわじわと肩に食い込み、息が白く漏れる。

外観のくすんだ塗装とひび割れた外壁に、一瞬だけ不安がよぎった。

けれど鍵を回して中に入ると、そこには写真通りの明るい空間が広がっていた。


白い壁紙、木目のフローリング。

午後の光を受けて淡く輝く床。

新品同様のカーテンレール、鏡のように光るステンレスのシンク。

——外観との落差に、思わず笑みがこぼれた。


荷物を運び入れ、引っ越し業者が帰ると、部屋は急にしんと静まり返った。

外から聞こえるのは、遠くを走る車の低い唸り声だけ。

隣室の生活音すらしない。


この静けさを、当時の私は「落ち着く」と感じたが、今思えばそれは——外界から切り離されたような、湿った隔絶感でもあった。

荷解きの手を止め、床に腰を下ろして缶コーヒーを開ける。

アルミ缶の冷たさと、甘くほろ苦い香りが鼻をくすぐる。


窓の外、傾きかけた陽光が壁に滲み、部屋の隅に影を長く伸ばしていた。

その影が、ほんのわずかに呼吸するように揺れた気がして——私は瞬きをしてから、慌てて視線を逸らした。


——ここから、私の新しい生活が始まる。

そのときの私はまだ知らなかった。


この部屋に「私以外の何か」が、ずっと、じっと、息を潜めていたことを。


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