第2話

今年も結局、雨は降った。

 不足していたプリントが配られると明日以降の時間割や健康診断の説明が手短かに行われ、高校最初の一日はお昼前に終わった。手早く荷物をまとめて帰宅する生徒もいれば、スマホを見せ合って共感を楽しむ女子グループと、教室にはめいめいの時間が流れ始めている。

 普段の僕なら圧倒的に前者側の人間であるが、今日は違った。

 解散の一声が掛かってから少々、荷物をまとめた久木は「一緒に帰ろっ!」と誘ってきた。さっきの続きであることは直感でわかった。

 が、僕は二つ返事が出来なかった。しなかったのではなく。

 なぜなら、現在進行形で澄香に一緒に帰るかを確認している最中であるからだ。中学の時、修学旅行の終わりに一人そそくさと家に帰ったら、何で先に帰ってるのとその夜にめちゃくちゃ電話で怒られたことがあった。人は学習をする生き物だ。同じてつを踏まないように、今回はちゃんと澄香にお伺いを立てている。

 以上の諸事情により、久木のお誘いに乗るか降りるか、その決定権がこの場に居ない幼馴染が握る不思議な状況になっているところで、机に置いていたスマホが震えた。

 すみから「クラスの子と先に帰っちゃってる」のメッセージに、謝罪する猫のスタンプが続けて送られてきた。僕の配慮は徒労とろうに終わった。

 なので、僕は彼女の提案に乗ることにした。気乗りはしないが、成り行きなので致し方なかった。

 そして現在。

 昇降口の軒庇のきひさしであるはずの折り畳み傘を久木が探し始めてから、かれこれ10分が経っていた。紺色のスクールバックをガバッと大きく広げ、クリアファイル、ポーチ、ペンケースと持ち物全部を出してはしまい、しまっては出したりを繰り返している。

「一旦、教室戻ってみる?」

「学校じゃ一度も出してないんだよね....」

「やっぱ、家に忘れちゃったんじゃない?」

「それはないよ。だって、昨日から机の上に準備しておいたんだから」

「入れ忘れの可能性はないわけ?」

カバンの内を弄る手がピタリと止まり、パッチリとしたつぶらな目がパチパチと瞬きをした。

「...........そうかも」と彼女は観念した声を上げた。

どうやら記憶の中で、折り畳み傘が見つかったようだ。

ファスナーが唸り、すぐにカバンは閉められる。

「どうするの?」

「.......どうしよう」

目の前に広がる外界そとの景色、雨雲から落ちた雫は地面で跳ね上がり、幾重もの波紋が地上に湧いている。春らしいおしとやかな雨だ。

「職員室に行ったら、貸出用の傘でも貸してくれるんじゃない?」

学校のことなら大概は先生に相談すればどうにかなる。

殊更ことさら、傘の一本や二本程度なら貸してくれるはずだ。

「................行きたくない」

絞って絞って絞り出した声がボソッと呟いたのは、まさかの拒否であった。

「なんで??」

「だって、今日は雨が降る予報だったんだよ。」

「…うん」

「それに今日は入学式」

「……うん?」

「いま借りに行ったら、すぅぅーーごく抜けてる子だと思われちゃうじゃん!」

 いや、そうだろ!

 舌の上まで乗ったツッコミを、喉元のどもとに詰まりかけた異物を飲み込むようどうにか胃袋まで落とし込んだ。

「べっ...別にそんなことないと思うけど......」

「じゃあ、爽太君が先生の立場になってみて」

「はい?」

「高校初日のHRが終わり、職員室に戻ったとするでしょ。すると、一人の生徒が職員室に来ました。入学初日から何の用事だろうと気になりながら話を聞くと、傘を忘れたので貸してくれませんかと相談してきたのです。この状況、爽太君ならどう思いますか?」

久木が提示したシュチュエーションを脳裏に浮かべてみる。パソコンで業務しているところに、久木さんがやって来て傘を忘れたので貸していただけないか依頼してくる。......あぁー。

「いま絶対に天然だと思ったよね!ほら、目が明後日の方向に向いてるよ」

 心の中ですら言わなかった僕の感想を彼女は見事に読み当ててみせた。読心術の使い手であることに感心すると共に、それとなく彼女が言いたいこともわかった気がした。

 きっと、彼女にとっての高校生デビューは完璧じゃないといけないのだ。

「......俺が聞いてこよっか?」

「それは流石に爽太君に申し訳ない...」

「じゃぁ、一緒に借りに行く?」

「....それはもっとやだ」

「でも、雨は当分止みそうにないけど」

お天気アプリで向こう一時間の雨雲状況を確認しても、雨雲は弱まりも強まりもせずにしばらく停滞する予報が表示されていた。

「わかってるよ....」

 理性の上では、彼女も自分がすべきことをわかっているようだ。

 ただ、それを阻む理想の自分もいるようで。

 二つの意見の合流地点となった久木の言葉には、相容れない感情がせめぎ合っている。

 チラりと外を見ても、春雨と言えるほどの雨の軌跡がやはり見える。雨は止まない。冷たい春先の雨を浴びれば、体調を崩すのは必定。何より、女子一人をびしょ濡れで帰らすのは、流石の僕でも許容できなかった。

やはり、傘はもう一本必要だ。

「流石に傘は2本持ってないからね。」

 彼女には諦めてもらい、わめかかれようが僕一人ででも傘を借りに行こうと決め始めた頃。

「一本はあるんだよね?」と何かをひらめいた久木が小賢こざかしく聞いてきた。

「折りたたみがね」と僕は手に持つコンパクトな黒い折りたたみ傘を彼女に見せた。

 この1本では一人しか守れない。

「じゃあ、それで解決しよう!」

「うん?」

「隣、入らせてもらってもいいかな」

「え?」

「だめかな?」

「え?」

「......だめ?」

「……ぇえ」

「............だめ?」

「....................」

「..........さすがにムリだよね....あはは...」

 いじらしく無茶振むちゃぶりを要求してきた彼女も、最後には乾いた笑い声になっている。

 世間体も周囲の視線もあなたの人との距離感も、全部気になって仕方がない。

 何より一番気になったのは、僕に相合傘をさせることが申し訳ないと思わない彼女の価値基準だった。

「.......まぁ別に、久木さんが気にしないなら別にいいんだけどさぁ....」

 今朝から無駄に酷使こくしされ続けた僕の頭はエネルギー不足で、もう何かを考え抜くのが億劫おっくうで、けれど何かをしなければらちが開きそうになかった。

 僕は諦めて軒庇のきひさしきわまで進み、ボタンを押した。

 灰色の空に一輪の黒い花がパッと咲く。

 布を叩くこもった雨音が頭上から降り注ぐ。

 僕は自分の右側が空いていることを、傘をクイクイと右側に軽く倒して主張した。

「お言葉に甘えて。....お邪魔します」

 お礼の意か反射的な動作かは定かではないが、かがみ腰になる姿勢を一瞬見せて、久木は僕の横についた。至近距離しきんきょりで見た久木は決して華奢きゃしゃではなく、スレンダーでありながらも彼女の身体からだもとい存在が大きなものに見えた。

「......帰りますか」

「そうだね」

 タイミングを合わせ、雨空の下へと踏み出す。

 潮が満ちたり、引いたりするように、僕らの肩は時に触れ会い、時に触れ会わなかったりした。これだけ距離を縮めても、この傘では身体二つを守るには心許こころもとない。こんなことになるんだったら長傘も持ってくればよかったと、どうしようもない後悔を今になってした。

 僕らは身を寄せ合いながら帰路に着くも、仲睦なかむつまじい男女二人組とは程遠く、よそよそしい空気が既に立ち込めていた。気まずい。ただただ、気まずい。気まずさを紛らわすための他愛のない会話も、二、三言で千切れてしまう。さっきまではクラスメイトとして普通に話せていたのに、今になってそれが出来なくなった。

 きっと、相合傘この近さのせいだ。

 鼓動も、体温も、隠した本音さえも、彼女に全部伝わっている気がしてならない。

「ねぇ」

「あのさ」

話すタイミングは幾らでもあったのに、二人の言葉は運悪くも重なった。

「お先にどうぞ」

「大した事じゃないから。そっちこそ、話したい事があるんでしょ」

「じゃあ...。ホントありがとね、中に入れてくれて」

「別に良いって、どうせ傘はさすんだから。一人だろうが、二人に増えようが、三人になろうがさす人の労力は変わらないし」

「3人は入らないんじゃないかな」

 僕たちは一笑する。

「.........」

「.........」

 そして僕たちはまた黙る。

 結局、ロクに会話が出来ないまま、僕らは校門を後にした。

 校門を出るとすぐ、彼女があっ...と声を上げた。忘れていた何かを今この瞬間に思い出したかのように。

「あぁーー.......」

 彼女の目線の先を見て、僕もすぐに声が出る。

 横浜市民には見覚え深い、丸い形のバス停。雨の中で一人寂しく待ちぼうけている。

「そう言えばバスあったね」と彼女は失笑した。

 渡りに船、雨の日にバスとはまさにこのこと。

 お陰でこの苦難からなんとか脱出できそうだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る