第1話

「ねぇ、爽太君。」

 音に想いが込められたなら、その音は色付いて見えると聞いたことがあった。

 楽しい音はオレンジ色、悲しい音なら紺色、怒る音が赤色で、優しい音ならピンク色。

 音と心が共鳴し、心に秘めた感情の色が浮かび上がってくると。

 全部、澄香から教えてもらったこと。

 なら僕は、初めて話すこの子に何を感じているのだろう。

「なんでみんなと同じ普通の青春を求めているの?」

 吹き荒ぶ春風で舞う桜吹雪の様に、はかなくも幻想的なその桜色の声に。


 彼女を知ったのは長針をぐるっと一周巻き戻すこと一時間前、このクラスで行われた高校初の自己紹介であった。


「××中学から来ました羽沢爽太はざわそうたです。中学では野球をやってました。コーヒーが好きなので、もしおすすめの喫茶店とかあったら教えてください。せっかくの高校生活、みんなと同じ普通の青春が楽しめたらなと思ってます。1年間よろしくお願いします」

 社交辞令で一礼した身体を起こすと、見慣れない教室の風景がようやく冴えた瞳に突き刺さった。まだ汚れの少ないクリーム色の明るい壁、照明の白がきらりと反射する木製の机、人数分用意された金属製のロッカー、クラスメイトからの熱いとも冷たいとも言えない生暖かな視線と同情に義務感がないまぜの拍手……無造作につまめられた高校らしさが、自分が高校生になったことを実感させた。

 体裁を気にして伸ばしていた背筋は緩めず、この世界の調和を崩さぬようゆったりと自席に戻った。自己紹介は予定通りの凡退に終わらせ、丸めた背中で一仕事終えた後の深い吐息を吐く。

 マジで澄香が居なくて助かった。

 ついでに本音も漏れた。こんな平凡な自己紹介をすみが聞いていたなら、

 なにこれ?、えぇ....ホントありえないんだけど、やっぱ青春不適合者だよね...

 など散々な苦言を帰り道で聞かされる羽目になっていた。脳裏で映像化された幼馴染は相も変わらずやっぱ毒舌で、想像上の姿に何故だかヒェッと身をすくめていたところ、一つ後ろに座る人の自己紹介が始まった。

 「初めまして、久木未依ひさきみよりと言います。生まれは横浜ですが、家族の事情で中学は東京の中学校に通っていました。なので、3年ぶりの横浜です。甘いものが大好きなので、みんなと放課後にお茶でも出来たらいいなと思っています。部活も日常も遊びも全部楽しむつもりなので、これから1年間どうぞよろしくお願いします」

 女の子特有の柔らかな声を軽やかに響かせながら、彼女は新生活への期待と希望を包み隠さず口にしていた。話す時も終始周りに目線を配り、僕とも何度か目があった気もした。腰から身体を曲げた丁寧なお辞儀をすると、ふわりとはらんだベージュ色のショートヘアが微かに揺れる。丸みを帯びた小さな顔に色白の肌、高校生にしてはすらりとメリハリのある体型がどこか大学生っぽかった。

 そんな彼女には計り知れない不思議な雰囲気があった。可愛げがあるとか、大人びているとか、人の魅力や性格的特徴から生じるたぐいの雰囲気とは全くの別物。休日昼下がりの渋谷スクランブル交差点に、国民的大女優が一人混ざり込んだとしてもその非凡なオーラで容易たやすく気付かれてしまうのと同じ根を持つ異質な雰囲気。つたない高校生の語彙ごいで言語化すると、久木未依はガラスのピラミットが象徴的なフランスの美術館に収蔵される、決して触れることの出来ない神性で高尚こうしょうな唯一無二の芸術品。教卓で快活に話す彼女を見て、何となく僕はそう感じた。

 そして、久木未依の自己紹介は波風立つことなく終わりを迎えた。

 一テンポ遅れて鳴った拍手は、拍子抜けなほどに空っぽで乾いていた。

 それはクラスメイトが抱いた強い感情の数々、嫉妬や羨望、倦怠、高揚、虚無、希望、諦観.........の全てが視線となって教室内を錯綜したことで、感情の密度が高まり、教室が共有できる感情の最大量をパンクしていたことを表していた。

 結果、久木未依というたった一人の女の子に、彼女を除く1年C組全員が呆気に取られる事態となった。

 久木未依の自己紹介の後も予定通りに5、6人の自己紹介が行われたが、彼女の後では、単にどこにでもいる普通の高校生としか思えなく、名前すら曖昧にしか覚えてなかった。

 十人十色じゅうにんといろ玉石混合ぎょくせきこんごうな36名の自己紹介が終われば、息付く暇もなく入学後の事務説明に移った。プロローグやチュートリアルが異様に長いゲームと同じく、想像していた高校生活に待ったをかける長々とスキップのしようがない無味乾燥な諸説明に飽き始めた頃、担任は不足したプリントを取りに職員室へ向かった。

 ドアが閉められると、物静かな教室で黒い塊がモゾモゾとうごめいたことが教室の後ろに座る僕からはよく見えた。担任不在のこの状況で何をすべきか、みんな他人の顔色を伺っていた。ほどなくして、闊達な男子のやたら大きい話し声が聞こえると、三つ、四つと、自然に会話が湧き始めた。僕も郷に従い、左隣の男子に声をかけようとした。漫画好きと公言していた彼の名前が思うように思い出せず、10代でガタのきた記憶力に参っていたら......

 厚い生地で仕立てられたブレザー越しに、にぶいけど柔らかな圧力が続けて二度、右肩甲骨の一点に優しく掛かった。身体はその感触に驚きも拒絶もすることなく、ただただ素直に受け入れた。

 身体をひねって、そっと振り向いた。

「ねぇ、爽太君。」

「なんでみんなと同じ普通の青春を求めているの?」


「……」

 驚きでまばたいた時、うららかなそよ風に花を散らす枝垂れ桜しだれざくら桜蔭おういんまぶたの裏に映し出された。

「あれ、聞こえてなかったかな?」

 彼女の声で現実に引き戻されると、そこは僕が居る1年C組の教室で、僕の姿勢はさっきまでと同じく後ろに振り向いたまま。

「......いや、バッチリ聞こえてた」

 夢?妄想?幻覚?彼岸?一瞬の奇妙な体験はもう訪れそうになかった。直感がそう悟った。なら、過去は忘れ、杞憂きゆうを一蹴し、脳と口を動かして、さっさと思考を現実向けにチューンアップさせる。

「じゃあ、聞かせてよ。爽太君がなぜ普通を求めるのかについて」

 背もたれに右肘みぎひじを掛けて振り向いている僕との距離を縮めるためなのか?軽く組んだ腕を机に乗せて半身を支えている彼女は、つむじがチラ見えするほどに前のめりになっていた。

「なぜって言われてもねぇ....」

 アドリブの自己紹介、雰囲気で話した何気ない言葉には、彼女の求めるような意味など勿論なかった。強いて言えば、今朝のすみに青春しろ!と叱咤激励しったげきれいされて無意識に喋っていた程度のこじつけが限界であった。

「普通って、みんなが持っているから普通なんだよね。でも、君はそんな普通を欲しがってる。そしたら、爽太君には普通を求める何か特別な理由でもあるんじゃないかなって?」

 桃色の瞳は純粋以外を知らなくて、揺るぎのない視線が僕の発言に当然意味があると主張していた。だから意味なんて無いんだって、と衝動に駆られて飛び出しかけた邪険な言葉をぐっと押さえ付けた。彼女とは初対面で、しかもクラスメイト。あまりに奇怪きっかいな会話だとしても、適度な距離感で上手く付き合っていかなければならない。何かしらの理由を作り出して彼女の期待に応えるか、気にさわらない程度にあしらって済ませるか、いずれも面倒で厄介な二択だ。

「普通がいいと言うより、普通でいいってだけ。みんな特別って言葉に目がない割には、特別扱いは案外嫌でしょ?」

 結局、面倒がこうじて、今はこの場をしのぐだけにした。

「それはおっしゃるとおりなんだけど.......。でも、せっかく高校生になったんだから、誰もが憧れる青春を一度でいいから体験したいと思わない?女の子は逃げ場のない壁際で先輩に見下ろされながら告白されることに憧れちゃうし、男の子だって部活のマネージャーから付き合ってなんて言われたら、絶対OK出しちゃうでしょ?」

愚問ぐもんだね、それ」

「でしょ!やっぱ、爽太君の心は特別を欲しがっているんだよ。他人と違う、他人が羨む、そんな特別が。だからホントの本当に普通なんて求めてるのかなって、つい興味が湧いちゃって」

 彼女はあざとく微笑んだ。柔らかな輪郭りんかく下半月かはんげつの眼が、僕の心を見透みすかすようにこちらを覗いている。ところに幼なげなだが、容姿や立ち居振る舞いから推察できた。

 久木未依は育ちが良くて、多分立派なおうちの箱入り娘なんだと。

 だから彼女と僕とでは、世界の見え方が根本的に違うわけで。

 朝起きて、学校に通い、授業を受けて、家に帰り、風呂に入って寝る。

 ただただ平凡な毎日を求める一般人が彼女には珍しいのだ。

「ホントの本当に普通でいいんだけどね」

「えぇ〜、憧れない?屋上でお弁当を食べたいなぁって」

「多分入れないと思うけど?」

「不思議な部活に入部したくない?」

「一般的な運動部と文化部しかなかったような...」

「起きたら突然、身体が入れ替わっちゃたりとか?」

「思春期には刺激が強すぎるからそれは遠慮したいね」

「ずっと一緒にいる幼馴染と付き合いたいとかは?」

「......................随分と難しいこと言うね」

「あとは............」

「学校でアイドルでもやり始める?それとも、喋る動物と契約して魔法が使えるようになったりしたい?」

「アイドルやる時はよろしくね、プロデュース君?」

「やだよ」

プロデューサー役を拒否した僕を見て、ふふっと彼女は可笑しそうに微笑んだ。

「もしこんな高校生活送れたなら、絶対楽しいよ」

「実現できるといいね」と僕は作り込んだ笑顔で応えた。

「絶対実現するよ。そのために私はここにいるんだから」

 彼女の瞳に秘められた意志のまばゆさは夜空の一番星よりも明るく、恒星のように力強く輝いていた。

「.........それはすごいね」

 高校生デビューを成し遂げようとする本物JKのポジティブさに、軽く引いた。

そして彼女が何かを考え始めたかと思えば、

「やっぱ、爽太君には普通の青春を求めるだけの理由があるんじゃないかな?」と言った。

「だからないよ?」と僕は即答した。

「絶対あると思うんだけどなぁ、自分でも気づけていないだけで」

「じゃあ、その根拠は?」

 彼女の視線が机にち、小さな顎先に右手を当てて、か弱い声でうねり始める。

「自己紹介で初めて見た時からなんとなくそんな感じがしてるんだよね......」

 時々眉間に力を込めながら考え続けた末、彼女は僕の顔を見ることなく独り言のように呟いた。

「それ、本気?」

 自分の声をどこか他人の耳で聞いている感覚が、僕にはあった。

「結構自信あったんだけどなぁ…実は爽太君は普通な高校生ではなかったりしない?」

 丸い顔を更に丸ませ、一縷いちるの希望を見出すようにかしげこむ彼女の顔は僕の顔色を伺っている。

「まさか。この通りただの普通の高校一年生だって」

 何をもってしたら彼女にとっての普通なのか、それはわからない。

 ただ、僕は歯を見せて大きく笑いおどけた。

 そして、僕が普通であることだけを彼女に伝えた。

「やっぱそうだよね」

「この学校にいる人、みんな普通だよ。それより久木さんはどうなの?色々楽しむって言ってみたいだけど、具体的にしたいことがもうあるわけ?」

「うん!まず今は.......」

 振り回され続けた話の中心をようやく置き換えられた時、威勢よく回転する車輪の轟音が彼女の声に被さった。そこかしこで弾けていた会話も一斉に止み、クラス全員の目線が気怠けに戻ってきた担任に向く。担任は待たせたことを平謝りしながら、プリント数枚しか入ってないクリアファイルを抱えて教卓に戻った。入学式で身に付けていた外行きのジャケット、白いネクタイは外れ、第一ボタンを開けた開襟の白シャツに黒のスラックス姿と随分な軽装にお色直しもしている。

「........続きはまた後で」

 肩を軽くした担任をぼんやりと追っていると、忍ぶ小さな声が耳元でささやかに聞こえた。かする吐息が耳を優しくでたことよりも、夢見心地ゆめみごこちの甘く儚い声そのものが心をくすぐった。咄嗟とっさに振り向いても、彼女はただ愉快に微笑んでいた。担任が不在の間でもちゃんとイイ子で居ましたよ、と主張する優等生かのように。

 少し香った甘い香りは当分忘れられそうにない。

 予報外の春一番に、心は大きく掻き乱された。

「なにあの子......」

机で突っ伏した僕はそう呟いていた。

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