枝の上のただいま
彼辞(ひじ)
枝の上のただいま
夏の終わり。
陽太は裏庭のケヤキの影に、ランドセルの重さを置いた。
家は静かで、風鈴だけが台所のほうから鳴っている。
「——う、うらめしや」
葉の間から声がした。振り向くと、木の幹の陰に女の子が立っている。
陽太と同じくらいの背丈。つくりの古い白いワンピース。縁だけが、光にほどけるみたいに薄い。
「君、誰?」
「私、あかり。この木に住んでるの」
言いながら、少しだけ肩をすくめて笑った。
怖くはなかった。
むしろ、ひさしぶりに誰かが家に来たような、安心に近いものが胸に広がった。
二人は他愛のない話をして、その日の午後を使い切った。
葉の裏に並ぶ緑の脈、土の匂い、遠くの踏切の音。
話すと、景色がゆっくり色を変えていくのがわかった。
「ねえ、陽太くん」
数日後、あかりが言った。
「この木に、おうちを作らない?ツリーハウス」
陽太は息を飲む。ずっと、テレビで見るたびに羨ましかったもの。
「やろう。僕も作ってみたかった」
手をつなごうとして、二人の手はすり抜けた。
空気だけが触れた。
あかりは困ったように笑った。
「ごめんね。私、こうだから」
「大丈夫。触れなくても、きっと一緒にできる」
次の日から、放課後はツリーハウス作りに没頭した。
あかりは空中に透明な指で線を引く。
床はここ。壁はこう。窓は西。
陽太はそれを、方眼紙に写し取った。
鉛筆の芯が減る音が、やけに大きく聞こえた。
材料は陽太が集めた。
父の工具箱から許された分だけを借り、近所の材木店で端材を分けてもらう。
板を持ち上げると、樹の匂いが鼻を抜ける。
「重くない?」
枝の上から、あかりがのぞき込む。
「平気。君の分まで持つよ」
作るのは思っていたよりゆっくりだった。
釘はまっすぐ入らないし、梯子は一段ごとに揺れた。
雨の日は、幹に背を預けて雨音を数えた。
屋根に落ちる音、葉を滑る音、土に沈む音。
「手伝えなくて、ごめんね」あかりが言う。「私が言い出したのに」
「大丈夫。意外と悪くないよ。」「この作業も」
夕方、透明な涙が彼女の頬を伝うと、ほんの少しだけ光が歪んだ。
陽太は、そこにそっと目をそらさずにいた。
少しずつ形になった。
四角い床。薄い壁。掌ほどの窓。
ドアは軽く、でも風には負けないように。
釘の頭が一つだけ斜めのまま残ったのも、二人の秘密になった。
完成の日、梯子の上で手の汗をズボンに拭いた。
「よし、入ってみよう」
陽太が先に身体を潜り込ませると、
あかりはふわりと続いた。
床板に影は落ちないのに、不思議と狭くなった気がした。
「入れた」
彼女は嬉しそうに、音のしない拍手をした。
窓からの景色は、地面とは別物だった。
屋根のない空、遠くの電線、鳥の影。
二人は並んで座り、息が合うまで黙っていた。
「ありがとう、陽太くん」
「こちらこそ」
それからも、放課後は枝の上に積み重なっていった。
ノートに宿題を広げる日もあれば、ただ夕焼けの色を数える日もあった。
季節は進む。蝉が落ち、銀杏が薫り、雪景色が広がる。
陽太は中学生になり、高校の制服の袖が少し長かった冬も、
最終電車の音を聞き終えるまで、そこにいた。
友だちに「部活もやらないで、いつも何してるの?」と聞かれると、
「ある場所に通ってるんだ」とだけ答えた。
あかりのことは、口に出さないほうがいいと、自然にわかったからだ。
やがて陽太は家を出た。
春にもう一度だけ梯子を磨き、窓を拭き、釘の斜めをそのままにした。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
彼女はいつもの場所で笑った。
枝先で、若い葉が小さく風にゆれていた。
——
帰省は、夏の終わりにした。
駅前の商店街は看板が少し新しくなっていて、家の門柱だけが昔の高さのままだった。
靴を脱ぐ前に台所のほうから風鈴が鳴った。音色が少し違う。紐が替えられている。
荷物を部屋に置くなり、裏庭へ出た。
ケヤキは相変わらず高い。幹の皮は濃くなり、ツリーハウスの板は日焼けしている。
梯子は、最後に上ったときよりも大きく軋んだ。
手のひらで板の端を撫でる。
樹の匂い。埃。夏の残りの熱。
斜めに打った釘は、ちゃんと斜めのままだった。
「——う、うらめしや」
葉の間から、あの声。
顔を上げると、入口の小さな窓のところに、白いワンピースが見えた。縁だけが、光にほどけるみたいに薄い。
「あかり」
呼ぶと、彼女はふわりと身を乗り出した。
「お帰り。……陽太くん、でいいのかな。背、伸びたね」
「うん、ただいま」
自分の声が少し低く響いて、可笑しくなる。
梯子を上がる。踏み板の間から、庭の緑が切れ切れに見えた。
入口をくぐると、ツリーハウスの空気は昔の匂いを忘れていなかった。
角に置いた木箱、窓辺の短いカーテン、床の小さな傷。全部、覚えている。
「変わってないね」
言うと、あかりは首を横に振る。
「ちょっとだけ。ほら、カーテンの紐、ちょっとほつれちゃった」
「ほんとだ、明日にでも直すよ」
陽太は窓枠の釘を一本だけ軽く叩いて、音を確かめた。
電柱には新しい鳥の巣があり、遠くの踏切の音は時刻を変えている。
「向こうの空き地、家が建ったよ」
あかりが窓の外を指す。
「昼間は子どもが走ってる。ここから、ちょっとだけ見える」
「そうなんだ」
陽太は頷いて、窓からの景色をひとつずつ拾い直した。
見慣れない屋根、増えた自販機、変わらない雲の流れ。
「ねえ、陽太くん」
あかりが、昔と同じ調子で呼ぶ。
「大人になっても、ちゃんと梯子、登れるんだね」
「けっこう、軋むけどね」
二人で笑う。音のしない笑いと、音のある笑いが重なって、すぐにほどける。
鞄から、小さな紙袋を出した。
「おみやげ。……ほら、窓につける鈴。風が通るたびに鳴るやつ」
「わあ」
あかりは手を伸ばして、触れないまま指先で形をなぞった。
「ここがいい。窓の右上。夕方の風がよく当たるから」
陽太は教えられた位置に鈴を結んだ。糸の結び目を強くしすぎないように、指先で確かめる。
結び終えると、ちょうど風が入り、ひとつだけ涼しい音が鳴った。
「ね」
あかりが耳を傾ける。
「新しい音が増えた」
「うん。……でも、ここは同じだ」
しばらく、二人は並んで座った。
屋根のない空。鳥の影。遠くを走る車の光。
息が合うまで、何も話さない。
「……いなくなってたら、どうしようって思った」
陽太が、小さな声で言う。
「あの日、行ってくるって言ってから、ずっと」
「私はここにいるよ」
あかりは笑った。
「この木が立っていて、あなたが梯子を上がって、斜めの釘が斜めのままなら」
陽太は足元の板を軽く押して、軋む音を確かめた。
「じゃあ、まだ大丈夫だ」
「うん」
あかりは、昔みたいに手を差し出す。
触れない手は、相変わらず空気だけを揺らす。
「……ね、最初に会ったときの挨拶、もう一回やってもいい?」
彼女が照れたように言う。
「いいよ」
あかりは息を整えて、少しだけ低い声を真似た。
「——う、うらめしや」
陽太は肩を震わせて笑った。
「やっぱり、ちょっと下手だよ」
「練習する」
彼女も笑う。音のしない拍手が、鈴の音と重なった。
夕焼けは、遅れて来た。
窓枠の影がゆっくり伸びて、二人の間を細く横切った。
外の風鈴が、台所のほうで遠く鳴った。
「また、来るね」
陽太が言う。
「うん。私はここで待ってる」
あかりは頷く。
「何度でも、お帰りって言うから」
その言葉を、木目が静かに覚え込む。
鈴がもう一度だけ鳴って、風は少し弱くなった。
夜が近づいてくる。
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