バンパイ屋 — 夜だけ開くラーメン店

彼辞(ひじ)

バンパイ屋 — 夜だけ開くラーメン店

店の名前は「バンパイ屋」。藍色の暖簾には筆文字でこう書かれている——ニンニクいれますか?


開店は日没、閉店は夜明け。店主は長い前髪で赤い目を隠した青年で、名前を吸江(すいえ)という。つい最近、ルーマニアの古城から渋谷に引っ越してきたばかりの吸血鬼だが、もう人狩りはしない。今の彼の仕事は、深夜に働く人々の空腹を満たすことだった。


「いらっしゃいませ。今夜は何になさいますか?」

静かな声が、夜の街角に溶け込んでいく。


カウンターはわずか8席。狭い厨房では、ふたつの寸胴鍋が静かに湯気を吐いている。壁には手書きのメニューが並んでいた。


影(シャドウ)醤油 790円

月光(ムーンライト)塩 820円

ブラッディトマト(※血は入ってません) 850円

コウモリ餃子(羽根つき) 420円


初めて来た女子大生の灯(あかり)が、メニューを見てくすりと笑った。


「"血は入ってません"って、わざわざ書くんですね」

「ええ、最初に説明しておかないと、お客さんが心配されますから」


吸江は穏やかに答えながら、湯切りをする。ザバッ、シャッ。麺が月の弧を描いて、湯切りザルの中で踊った。


それでも吸江の盛り付けは見事なものだった。味玉は縁から二指ほどの位置へ、海苔は箸の背で軽く立てる。


灯がスマホで撮影して確認した。

「盛り付け、完璧ですね」

丼がカウンターをすべるように運ばれてくる。鶏油がきらりと光り、立ち上る湯気が鼻先をくすぐった。半熟の味玉は、よく染みた琥珀色をしている。

一口啜ると、灯の肩から力が抜けた。


「……はぁ。なんだか落ち着く味です。口コミに書かせてもらってもいいですか?」

「どうぞ。ただ、住所はあまり詳しく書かないでいただけると助かります。開店前から行列ができると、ご近所に迷惑がかかってしまうので」


バンパイ屋の客層は実に多彩だった。タクシー運転手、深夜警備員、ライブ帰りの若者たち、夜勤明けの調理師、配信を終えたばかりのストリーマー。そして時折——吸血鬼ハンターも。


ある晩のこと。黒いコートを着た男たちがずかずかと入ってきた。首には十字架、腰には見慣れない道具の数々。明らかにハンターの風体だった。


「ここが噂の"血のラーメン"を出す店か」

「申し訳ございませんが、それはトマトスープでして」


吸江は穏やかに微笑みながら、寸胴の蓋を少しずらした。立ち上る湯気からは、鶏と昆布のやさしい香りが漂う。辛味の正体は唐辛子ではなくビーツの甘み、にんにくも黒にんにくで角を取ってある。


「吸血鬼のくせに、ニンニクは平気なのか?」

「生のニンニクは確かに苦手ですが、発酵させた黒にんにくなら大丈夫なんです」


麺が上がる。ザッ、ザン、トン。リズミカルな音が店内に響いた。

男たちは無言で麺を啜り続けた。


そして、少し間を置いてから——

「……すみません、替え玉をお願いします」

「はい、かしこまりました」


店内に小さな笑い声が起きた。緊張は、熱いスープとともに自然にほどけていく。


やがて店は評判になった。灯が書いたレビューがSNSで拡散され、夜の街で口コミが口コミを呼んだ。


ただ、ひとつだけ問題が起きた——保健所の立ち入り検査だ。


「当店では血液は一切使用しておりません」


吸江は落ち着いて材料の箱を開けてみせた。小麦粉、鶏ガラ、昆布、煮干し、トマト、ビーツ、黒にんにく。裏の冷蔵庫を開けると、確かに真っ赤なパックがあったが、ラベルには「トマトジュース100%(業務用)」と記されている。


「夜勤のお客様は、お酒を飲まれている方が多くてですね、締めのトマトジュースが評判なんです」

「……こちらの勘違いでした。失礼いたします」


検査官が帰り際、小声でつぶやいた。


「あの、今度プライベートで、月光塩というのを食べに来てもいいでしょうか?」

「もちろんです。ただ、日中は閉店しておりますので、ぜひ夜にお越しください」


ある夜、常連になった灯が提案した。


「限定メニューやりませんか? ハロウィンに向けて」

「お客さんが増えそうですが……まあ、いいでしょう」


吸江は黒板にチョークで新メニューを書き込んだ。


"真夜中の白骨(ホネ)塩:丸鶏+乾物。澄んだ旨味。"

"悪魔的バターコーン:こってり注意。"


準備の合間、灯がふと訊ねた。

「ねえ、どうしてラーメン屋を始めたんですか?」

吸江は手を止めて、少しだけ目を細めた。

「昔は人間の血を啜りまくっていました。でも、ある時気づいたんです。自分が血を啜るよりも、誰かが麺を啜って、ほっと息をついて、少し笑顔になる……その音や表情の方が、僕にとっては大切なものだって。だから今は、満たす側にいたいと思っています」


灯は深く頷いた。

「じゃあ、今日もたくさんの人のお腹を満たしましょう」


午前3時。店内では、タクシーの短い休憩時間に駆け込んだ運転手、ステージを終えたばかりのダンサー、工場の夜勤を終えた作業員が、入れ替わりでカウンターに座っていく。みんな黙々と丼に向かい、食べ終えると少しだけ表情が和らいでいた。


「スープ、終わりです」


空になった寸胴の底が、厨房の明かりを静かに反射している。吸江は手際よく厨房を拭き上げ、最後にまかないを一杯作った。

塩ラーメン。具は少なめ、麺はかため、スープは熱々。ひと啜りすると、体の芯まで温かくなる。


東の空が薄っすらと白み始めた。吸江は暖簾を下ろし、看板を裏返す。

『OPEN → また夜に。』

換気扇の上で丸くなっていた小さなコウモリが、ひらりと舞い上がり、空に一度だけ輪を描いて戻ってきた。


「おつかれ」


吸江が微笑む。灯も微笑む。


街が目を覚ます頃、バンパイ屋は静かに眠りにつく。次の夜のために寸胴を洗い、新しいスープを仕込みながら。今夜もまた、誰かの空腹を満たすために。

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