第15話 許さなくて良いから

愛里の肩が小さく震えていた。千鶴がそっと背をさすっている。


「落ち着いた? 愛里、大丈夫?」


「……分かんない……でも……」


愛里は、ぐっと拳を握った。


「……秀くん……秀くんを探さなきゃ……!」


つばさは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに頷いた。


顔を上げると、すぐにつばさに向き直る。


「つばさママ!車、出してくれる?」


「わかった。でも、どこへ?」


その時——


バタバタバタバタッ!!


走る足音とともに、何人かの高校生らしき少年たちが駆けてきた。


「おい! 本当かよ!?」


「マジだって! 中学校の屋上から、人が落ちそうになってんだよ!」


「あそこ、もう廃校になってなかったっけ?」


「とにかく面白そうだから見に行こうぜ!」

愛里の目が見開かれる。


「秀くんかもしれない……!」


千鶴は、真剣な愛里の目を見て、つばさに振り返る。


「つばさ!愛里の言う通りにして!」


「…うん!乗って!!」

つばさが車の鍵を回し、ドアを開け放った。



夕闇が忍び寄る校舎の上で、異様な光景が広がっていた。

屋上のフェンスの外側に、若い女性がぶら下がっている。

結城璃子――その身体を支えているのは、血まみれの青年、宮下秀だった。


「――ばか! 肩を斬りつけてるのよ!! 腕が、千切れるわ!!」


璃子が悲鳴のように叫ぶ。

秀の右肩からは夥しい量の血が噴き出していた。肉が裂け、血管が切れ、ブチブチという音が生々しく耳を刺す。

それでも、秀は離さなかった。己の肩から流れた血が、璃子の腕や顔にまで滴り落ちる。


「離しなさいよ!! こんな…こんなことしても意味ないのよ!!」


秀は唇を震わせながら、声を絞り出す。


「い……や………だ…………」


睨みつけるようにして璃子を見下ろしながら、血の気の失せた顔でなお叫ぶ。


「もう……ここで……この場所で人が死ぬのを……見たくない!」


唇の端が引きつり、片目に涙が浮かぶ。


「生きろ……生きろ……璃子……!」

璃子の顔が歪む。

自分の名をそう呼ばれたのは、いつ以来だったろうか。

やがてその瞳に、悲しみと絶望の混じった微笑が浮かぶ。


「……宮下くん……やめてよ……辛いのよ……

もう……堀田くんの居ない世界なんて……

何の色もない……何の音もしない……ただ……苦しくて、寒くて……」


「だからこそ、生きろ!!」


怒号のような叫びが空に響いた。


「生きて、生きて、一生俺を憎め!!

お前の生きる理由を……俺への憎しみで埋め尽くせ!!そうやって生きて来たんだろ?!頼む…生きろ……生きてくれ……」


その時、地上ではざわめきが広がっていた。

通りがかりの大人たち、野次馬たちの群れ。

中には、車椅子に乗った愛里と、彼女を支える千鶴の姿もあった。


「秀くん!! 秀くん!!!」


愛里は叫び、身を乗り出そうとするが、千鶴が必死にその身体を押しとどめる。


「あ…あの女、やっぱり……!」つばさは、気づいていながら逃した事を後悔した。

璃子は、秀の片目に涙が溢れるのを見た。

視線が合った瞬間、その涙の奥に、自分がかつて愛したあの少年の面影が宿っているのを感じた。


「……ああ……そうか……

残された、左目には……貴方がいるのね、堀田くん……」


ぽつりと呟く璃子の目に、別の涙が滲む。


「ごめんね……私……貴方の大切な人を……」


その瞬間だった。


秀の力が尽きようとしていた。

血で滑り、璃子の身体がズリ落ちる。


「っ……ああ……もう……腕の力が……!」


――だが次の瞬間。


「大丈夫か!? よく頑張ったな!!」


鋭く響く声とともに、別の腕が璃子の身体を掴んだ。

通報を受けて駆けつけた、救急隊員だった。

璃子の身体が、ようやくフェンスの上へと引き上げられた。

秀の腕が、血で真っ赤に染まっていた。


空が、いつの間にか群青に染まっていた。

夏の終わりの風が、屋上を吹き抜ける。

生者も、死者も、想いのすべてを風に溶かして――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る