第12話 海神の判断
禁断の光景を目撃したレネウスは全身に走る戦慄を抑えながら、自身の肉体が乾き切る前に足早に海へと戻っていた。
彼の体は陸上で活動したことで霊力が急速に失われ、海神の加護が不安定になるのを肌で感じていた。
それは、彼が今背負っている情報の重さを具現化したかのようだった。
――なぜ、カイエルが死神と……
それに、カイエルはあの男に恋慕の情を抱いているように見えた。
カイエルは男だ。
カイエルは男が好きなのか?
それとも死を願う感情から死神という存在に惹かれているのか?
それに、種族を超えた者とは子供を成すことなどできない。
カイエルが生まれてからずっと監視してきたが、誰かに恋心を抱いているのは初めて見た。
当人はそれを気づいていないのかもしれないが、気づいていようがいまいが身体は発情期特有の匂いを発していて隠し通せない。
どういうことなのかレネウスには理解が及ばなかった。
レネウスの心中は激しい困惑と焦燥に満ちていた。
海神ルヴァルへの報告は使いとしての最優先事項である。
しかし、断片的に見たままを報告すれば、混乱を招くとともに長年保たれてきた海神と死神界の間の均衡も崩壊しかねない。
レネウスは海の浅瀬に入って海神界に行く寸前、あえて立ち止まり海の波に揺れる濡れたターコイズブルーの髪をかき上げた。
彼の胸中で監視者としての使命と、個人の運命が激しく衝突していた。
ただ「死神と話していた」という事実だけでは、ルヴァル様は動かないだろう。
だが、海神の加護のあるカイエルに死神が接触していたことは紛れもない禁忌。
死神界に事実確認が入り、少なからず揉めることになる。
海神界は死神界とは互いに不干渉で揉めることは避けたい。
報告をすれば形式的にでも事を構えることになるだろう。
それに、カイエルが「死神だけど、単に友人として話していただけだ」と主張すれば言い逃れの余地もある。
死神側も「海神の加護のあるとは知らなかった」と主張することもできる。
とはいえ、死神が見える人間は普通の人間ではない者であるから、その言い逃れもかなり苦しいが白を切られたら徹底的に追求できなくなる。
レネウスの主である海神ルヴァルは、秩序と動かぬ証拠を重んじる。
軽率な報告はかえってルヴァルの不興を買うことになるだろう。
レネウスが恐れていたのは、不確かな情報によってカイエルと死神の関係を曖昧に終わらせ、水面下で禁忌が進行し続けることだった。
決定的な証拠が必要だ。
カイエルと死神が秩序を決定的に脅かす異変を引き起こすような証拠、あるいは禁忌を犯した動かぬ事実を捉えなければ、この件に介入することはできない。
中途半端な報告ではならない。
その情報でもルヴァルの耳に入ったら海神界も動かなければならない。
それに、それをきっかけに海神の監視を逃れられる場所に逃げられては介入する術がなくなってしまう。
今回も、もっと時間をかけて調査をすれば更なる情報を掴めたと思うが、そう長い時間海神は陸にあがることはできない。
更に長い間陸にいる為には海神ルヴァルに特別な申請が必要だ。
しかし、申請には当然理由が必要。
カイエルの件をそのまま報告するわけにもいかないが、虚偽の申告をすることも重罪だ。
――あの死神は、カイエルとどのような繋がりなのか?
もし、カイエルの「死なない運命」を何かに利用しようとしているのであれば、それは海神の力への冒涜に他ならない。
彼は海の奥に身を投じ、体が水に触れると同時に一気に体力が回復した。
海の奥へ泳いでいくと近くを巡回していた下位の海神の使いが、レネウスのただならぬ気配を察して近づいてきた。
「レネウス様、ご帰還ですか。少しお疲れのようですが何か異常が?」
声の主は銀色の鱗を持つ若い人魚の使いだった。
レネウスは一瞬、その人魚に断片的に打ち明ける誘惑に駆られたが、すぐに冷徹な表情に戻った。
「些細なことだ。潮の流れに異常がないか人間界の港付近まで確認していた。異常はなかった」
レネウスの声は低く感情を押し殺していた。
「かしこまりました。しかし、随分とお急ぎのようですが……」
人魚の使いはレネウスの焦燥を隠しきれない瞳に気づいていた。
「……余計な詮索はするな。我々の使命は静かに秩序を維持することだ。この海に波風を立てる必要はない」
そう言い放つとレネウスは人魚の使いを置き去りにし、ルヴァルのもとへ向かう道すがら、冷静に思考を巡らせる。
彼の心は一つの決断へと傾倒していた。
――報告は保留する。私は監視を強化しなければならない。カイエルとあの死神が、我々の世界の均衡を崩す決定的な行動に出る瞬間をこの目で捉えなければ
レネウスの心の中で監視者としての使命と、一人の個人の運命の板挟みになっていた。
海神の
海律主ルヴァルは透き通るような白銀の髪は水流のように長く、深海の闇のような漆黒の瞳には、感情の代わりに無数の星々が宿っている。
その全身は常に微かな銀色の光のヴェールに包まれ、息をのむほどの神々しい威厳を纏っていた。
「ルヴァル様、戻りました」
「報告せよ」
気だるげでありながら威厳のある口調でルヴァルは報告を促した。
「カイエルに世継ぎを作るように説得しておりますが、やはり世継ぎは作るつもりはないようです」
「血筋が途切れなければなんでもいい。放っておきなさい」
「はい、かしこまりました」
その簡単な報告をし、レネウスはルヴァルの前から下がった。
彼はあえてルヴァルに報告しなかったが、それは事態を放置したわけではなく、より大きな権限を持って介入するための沈黙だった。
彼は自身の身分を賭してでも、この禁断の関係の結末を見届けなければならないと、冷徹な覚悟を固めていた。
海の深部の海神界へと潜っていくレネウスの瞳には、夜の海の色よりも深く執拗な監視の決意が宿っていた。
彼の行動はカイエルとアシュレイザルにわずかな猶予を与えたが、同時に海神側からのより厳しい視線が二人の関係を追い詰めることを意味していた。
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