第2話 目黒 - はじめて鍵をかけた夜 -
目黒の坂は、帰り道にだけ、重たくなる。
でも、住み始めた頃は──その息切れすら、新鮮だった。
アスファルトに響く靴音。
コン、コン、と。
街全体に聞かれているようで、私は少し背筋を伸ばした。
マンションの前に着く頃には、呼吸が浅くて。
その息づかいが、「ここが私の居場所」と告げてくれる気がした。
間取りは1K。
日当たりはまあまあ。
コンロは一口。
けれど、あの部屋はまぎれもなく「私の場所」だった。
週末には、中目黒まで散歩した。
川沿いの雑貨屋で、木のトレイや白い食器を買い足す。
リネンのカーテンをかけた窓に、オレンジの夕陽が透けて──部屋全体が静かに色づいていった。
ポットの湯気。
カップに注ぐ紅茶の音。
その小さな生活の音だけが、私の世界を満たしていた。
──ある晩。
夜遅く帰った私は、無意識に鍵を二つかけていた。
カチリ。
シリンダー錠。
そしてもうひとつ。
チェーンの音。
その金属の響きが、妙に耳に残った。
なぜ閉ざしたのか。
何を守ろうとしたのか。
わからない。
けれど、カップの縁を指でなぞる音がやけに大きくて──部屋の静けさが、孤独の形をしていた。
—————
春になると、目黒川は息を呑むほど華やかだった。
昼は花びらが、はらりと落ちて、水面を流れていく。
夜になると、ライトアップされた桜が川面に映り、光と影が揺れていた。
桜の花びらが水面に落ちた。
殆ど音はしなかった。けれど空気が、かすかに揺れた。
花びらが沈む、『フッ』と、とても小さな音。
風に揺れる枝は、誰かに呼びかけるようで。
私は思わず、耳を澄ませた。
その景色の前では、時間がほんの一瞬止まった気がした。
ベンチに座って、コンビニのコーヒーを飲む。
誰かと一緒じゃなくても。
特別な出来事がなくても。
──あの夜の音だけは、今も忘れられない。
自分を守るための鍵だったのか。
それとも、誰かを待つための音だったのか。
その答えを、私はまだ持っていない。
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