第1話 恵比寿 ― ほろ酔いのあとで
恵比寿で降りたのは、たしか大学三年の冬だった。
先輩に連れられて行ったのは、ガーデンプレイスの奥にある小さなバー。暗い木のカウンターと、静かなジャズ。氷が割れる音がグラス越しに響き、その残響が胸の奥まで染みていった。
スカイウォークの長い直線では、会話が途切れてもエスカレーターの音がごまかしてくれた。前を歩く彼の背中との距離は近いのに、沈黙だけが横に並んでいた。
「バカラのシャンデリア、見たことある?」
首を振った私を連れて、彼は広場へ向かった。
12月のガラス越しに、巨大なシャンデリアが浮かんでいた。
赤い絨毯の中央、天井のアーチに囲まれ、無数のクリスタルが光を集めていた。
観光客のざわめきやシャッター音さえ、光に吸い込まれていくようだった。
その光は、足元に小さな影を落とし、揺れる輪郭が未来を試すみたいに見えた。
光が頬に反射して、自分の呼吸まで見透かされる気がした。
ガラスに映る自分の横顔は、笑っていた。──けれど、それは見慣れない顔だった。
誰かの隣にいることで作られた笑顔のように思えた。
—————
あの人とは結局つきあわなかった。
関係は自然に途切れた。それでも、あの夜の恵比寿だけは今も色褪せず、私の中で点灯し続けている。
冬の夜気は冷たかった。
手袋をしていても指先が痺れるほどに。
けれどその冷たさは嫌ではなく、自分の心がはっきりと輪郭を持った気がした。
そして思う。
あの夜、手を繋がなくてよかった、と。
繋がらなかったからこそ、あの距離感は凍った光のように澄んで残った。
選ばなかったことが、ときに記憶をいちばん強くする。
たぶん、それでちょうどよかったのだと思う。
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