第3話:㏗1
◇◇◇
トイレに駆け込もうとしたとき、誰かに手首をつかまれ強く引っ張られた。
「何があったの?」
近原さんが目をしかめた怪訝そうな顔で僕を見上げている。手首を握る手がとても痛くて、僕は奥歯をかみしめ、放してほしいという意味を込めて首を左右へ振った。喉元まで来ている吐き気を必死にこらえているので何かをしゃべったらその言葉と一緒にいの中身がこぼれ出る気がする。
「チッ」
舌打ちをして彼女は多目的トイレの裏手に僕を引きずる。この大型プールには珍しく本物の植物が植わっているそこには、簡易シャワーが三基並んでいた。さわさわと葉っぱどうしの擦れ合う音がしてさわやかな風が流れ込む。吐き気が一ミリほど後退する。
「わからない。伊比君達がトラブルに巻き込まれて」
経緯をどう説明したらいいかわからなかった。おそらく熱中症の男の子をかばおうとして、その親らしい女性に怒鳴られ、男性に殴られた伊比君の姿を思い出すと、ちかちかと視界が明滅するような感覚とともに足元から重力が消失する感覚が来る。あの場面に引きずられて、もっと過去の記憶が脳の奥でガンガンと痛みを鳴らす。
近原さんは少年のようにぼりぼりと頭をかいてため息をついた。
「まあいいわ。とりあえず入川さんは伊比君達の方に行ったから……あたしがついてなくても大丈夫でしょうし」
そこで言葉を切って彼女は僕をまっすぐ見上げる。人間の目ってここまで大きい造作ができるんだと感心できるくらい大きな目をじっと見開いて眺められ、僕は一歩後ずさった。壁が背中にぶつかり、木の枝の揺れに合わせて地面に落ちた影の縁でちらちらと日光が躍る。
「なに」
「伊比君がトラブルに巻き込まれた? 首を突っ込んだんじゃなく?」
僕は伊比君はむしろトラブルから距離を取って冷ややかに見物するタイプだと思っていたから、近原さんが彼の行動を言い当てたのが、つまり彼女が彼の情動的な性格を理解していたのが意外だった。伊比君が起こった理由を考えようとすると、あの女性の怒った顔が瞼によみがえる。伊比君が吐き捨てた赤い唾があの男性の殴った力の強さを理解させる。今までの学校で、僕を気持ち悪いと笑った女子生徒の甲高い笑い声と、彼女が見下ろす僕を地面に蹴り飛ばした男子生徒の靴が肯定を踏む音が耳の奥によみがえる。
「うっ」
こみあげてきたものをこらえきれず、僕は吐き出した。熱く痛いほどに酸っぱいそれが口からドロドロと飛び出して、正面にいた近原さんの胸にかかる。胸と胸の間をつたい落ちていく。
「は?」
ボタボタと足元に白っぽく黄色いものが未消化の固形物を交えて落下する。近原さんは一歩も動かなかった。後ずさるそぶりも見せず僕を睨んでいる。二度目の吐き気が付き上げてきて僕はその場にしゃがみ込む。
「ちょっと! 手で押さえるのやめなさい!」
僕の手を口元から引きはがし、彼女は「汚れるから上を脱ぎなさい」とラッシュガードをはぎ取った。
「軟弱過ぎない? 熱?」
額に手を当てて熱を測ろうとする。わからなかったのか自分のひたいをぶつけてうーん、と唸る。彼女の体温の方が熱い。僕は寒気に肩を震わせる。胃の中身を吐き出して体温が下がったような気がする。
「ごめん、近寄らないで」
彼女の強い眼光を向けられていると思うと、胃の中身がまたせりあがる感じがする。今、近くに、女性がいる、のが不愉快だった。
不愉快。
気持ちが悪い。
いじめられているときは殺していた心が、転校して少しずつ生き返って、自我を持ち始めた。加害されたくない、侮辱されたくない、軽視されたくない、暴力を振るわれたくない、あざ笑われたくない。加害してきた人たちを遠ざけたい。彼女をやみくもに突き飛ばすために伸ばした手が、柔らかいものにぶつかる。彼女はびくともしない。地面すれすれに顔を落とす僕をその大きな目でさげすむように見ている。
僕の手は彼女の二の腕に振れたらしかった。
「ごめん。過去のこと、思い出して……女の人に近づかれると、嗤われてる気がして」
うまく言葉で説明ができない。普段からそう思ってるわけじゃなくて、さっきの場面を見た直後だからうまく気持ちの整理ができなくて、そういう気持ちになってしまうだけだって言わないといけないのに。
近原さんの体に触れている掌がじわじわと熱くなっていく。それを彼女は反対の手で握り、ねじり上げた。
「あなたのこの腕に怪我 をさせた人たちのことを思い出すの?」
体を腕ごとねじりあげられているので、地面に倒れ伏さないよう踏ん張るのでやっとな僕は身動きが取れない。その僕の腕をぐいと引っ張って、彼女は自分の胸に僕の顔を押し付けた。さっき吐いた吐しゃ物が鼻の奥に酸っぱいにおいを充満させる。
這いつくばるに近い姿勢から無理やり体を前方へ引っ張られて、僕は踏ん張ることもできず、彼女を押し返して立ち上がることもできないまま、彼女の胸に顔をうずめ、鎖骨と胸の骨の硬さをひたいに感じながらうめき声をあげる。
「吐きそう? まだ吐きたいんでしょ? 吐けば?」
その声にはさっきまではなかった苛立ちを含み、耳をチクチクと刺す。このままだと彼女の胸にまた吐しゃ物をぶちまけてしまうから、僕は必死に起き上がろうとするけど、顔面から地面に点灯する寸前の姿勢で彼女に抱きかかえられて転倒を免れているような姿勢でできることは何もなかった。そのまま三度目の吐き気が、「吐け」と耳元で命令されるなりあふれ出て、それは彼女の肌をまたも汚し、僕の鼻の中へ逆流する。むせると同時、しゃっくりのように胃袋がひっくり返って何度も何度も胃液が口からこぼれ出た。
彼女の胸を汚す罪悪感に僕は目を開けていられず、強く閉じた瞼の端から涙がこぼれ出る。女子に近寄られたときはたいてい、そのあとに男子からの暴力が控えていて、多分僕は予備動作なく殴られるよりも予告されて殴られる方が怖かった。心が、身構える時間があったから。そして、誰かに殴り飛ばされ、地面に仰向けに倒れながら見上げた空を思い出す。無理やり見せられたスカートの中の暗さも。
ごめんなさいという言葉を擦り切れるくらい口にした過去を。
吐しゃ物を挟んで頬に押し付けられる近原さんの胸の柔らかさがその時の記憶と重なって、僕はごめんなさいと唱えながらまた吐いた。
僕を膝で蹴り転がして、彼女は口の奥にその手を突っ込み、舌の付け根や喉を指先でひっかく。堪え切れずにまた胃袋から吐しゃ物が出た。もうすでにほとんど固形物はなくさらさらとした液体が口の両端からあふれ出る。さっき鼻に入ったせいで粘膜がつまり、口でしか呼吸ができないのに、口に突っ込まれた指が抜けないから息ができずに僕は手足をバタバタと動かして抵抗する。前歯で何度か彼女の手を噛んでしまったらしく、舌打ちとともに近原さんは手を抜いた。ようやく呼吸ができるようになって僕は胃酸で痛む喉をゼエゼエと言わせながら酸素を肺に取り込む。
「まだ吐きそう?」
甘ったるい声。見下ろす冷たい笑顔。
僕はせき込みながら顔を縦に動かす。
「あたしのこれはいじめじゃないわ」
僕は瞼を閉じて視界を遮断する。
「うん」
わかってる。
「ごめんなさい」
彼女に胃の中身を吐きつけてしまったことを謝罪する。仰向けの状態から起き上がろうとした僕を膝で押さえつけて、彼女はまた手を口に突っ込んできた。プールの地面が乾いていた僕の上半身を濡らし、吐しゃ物にまみれた箇所をあいまいにする。
喉の奥に熱い異物を押し込まれ、生理反応で僕はえづく。胃酸で粘膜のただれた鼻から鼻水が出る。息ができなくなって僕は何とか逃げ出そうと体をよじる。
「あなたの過去はだいたい聞いたから知ってるわ。それでトラウマがあるのも理解できる。でもどうしてさっきみたいな言い分になるの?」
胃液と涙で霞む視界で、近原さんが怒りに顔をゆがめているのが見えた。
胸に残る吐しゃ物を左手で拭い落とす。小ぶりだけど僕の胸とは明らかに形の違うそれ。
彼女が怒っている理由を僕は勘違いしている気がする。近原さんは多分、胸に吐かれたことは怒っていない。多分、なんとも感じていない。水着の隙間をくぐってこぼれ落ちた吐しゃ物が彼女の薄い腹部を伝い、うっとうしそうに近原さんはそれも手の甲で拭い飛ばした。
「吐きなさい。限界まで吐きつくしたらいいわ」
体を震わせて這いつくばり、もうほとんど残らない胃液を吐く。
僕の不愉快という気持ちが嘔吐した胃液と未消化の食べ物に姿を変えて、近原さんの体を汚している。「吐きなさい」と彼女は繰り返す。呼吸をたびたび失いながら、僕は本当に何も出なくなるまで胃の中身を吐き出し続けた。
「僕、怒らせたよね」
僕の喉の奥を本当に何ももう出ないのか確かめるようにのぞき込む彼女の手から解放されて、胃酸にひりつく舌でせき込みながら質問する自分は、だいぶ無神経なことを言っているのだろうと思う。
「そうね」
「どうして……」
どうしてこんなことするの? という問いかけを別の意味に受け取ったのか彼女は首を横に倒して鼻で笑った。
「どうして? 浅岡君、自分の言った言葉も覚えてないの?」
言葉? 戸惑う。近原さんが怒っていた理由が全くわからなくなる。
「不愉快」
「ごめん」
「違う。不愉快なら、不愉快って言わなきゃダメなのよ。それを黙ってやり過ごして後からこうやって吐かなきゃならないなら、きちんと表現しなきゃ」
シャワーのノズルを回す。きゅっと鋭い音がして粒の大きい雨が僕らに降り注ぐ。
「浅岡君が」
唾液と胃液にまみれた手を洗ってから、彼女は僕の方に目を落とした。
「嫌だったんなら、嫌だって言わなきゃ」
シャワーヘッドは固定されているので、彼女は立ち位置を変えて頭上から水を浴びる。水着の中にしたから手を突っ込んで洗い流しはじめ、僕はあわてて目をそらした。吐きつくしたからか、胃の中には吐き気はもうなくて、痛みだけが残っている。近原さんに対して吐き気を覚えないことにようやく気付いた。
「さっき、女の人に近づかれると、嗤われてる気がするって言ったわよね」
「うん」
「あれ、ものすっごく不愉快」
「ごめ、」
「理由もわからないまま謝られるのも不愉快」
僕は口を閉ざす。
「あなたを笑った昔のいじめっ子のクソッタレと、あたしが同じに見えるの?」
ちょっとそっち向いてて、と彼女は言って、僕の体を蹴り飛ばした。わき腹を踏みつけて寝返りを打てないように固定したまま、水着洗うから誰か着たら教えてと命令する。奥まった位置に数基だけあるシャワーエリアだからか、さっきから今まで誰もここに来ていない。
「あたしが、女の人に見える?」
言葉の真意がつかめないまま、僕はおずおずと「見える」と回答する。
「どうして? 胸があるから? あなたにあるものがないから?」
「違う」
「ふうん? じゃあなぜ?」
面白い回答を期待するように彼女の声が楽しそうに半オクターブ高くなる。
「もとから、近原さんは僕にとって女の人だから。あまり、その、身体的なことは考えてない……いだっ」
わき腹を踵で蹴りつけられ、痛みに悶絶する。
「じゃあ、つまり、スカート履いて女子として学校に通ってるから、あたしはあなたにとって女性なんだ? くだらない」
もんどりうつ僕にまたがって、彼女は僕の顔を覗き込む。
「相手を見もせず、表面の記号だけで判断してるんじゃん。あっさ。浅すぎる」
近原さんの右手が、僕の髪をつかんで頭部を持ち上げた。
「そんなことだから、過去にあなたをいじめたクソッタレと、それ以外の区別がつかないんでしょ」
僕はうめき声をあげる。
「痛い」
「いい? あたしはあたしを女の子のひとりとして見られるのがむかつくの。だから不愉快」
「ごめんなさい」
「女の子がみんなあんたをいじめたクソッタレと同じと思われるのもむかつくの。だから不愉快」
「ごめんなさい」
彼女の両手が僕の頬に添えられる。
「目を開けてこっち見なさい」
僕は知らず知らず強く閉じていた眼を開く。降り注ぐシャワーは近原さんにさえぎられて僕らのわきに薄いヴェールを作っている。
近原さんの鋭い目が僕をまっすぐに見つめている。真剣な表情で。
「女の人かそうでないかで人を見るのをやめなさい。あなたをいじめたクソッタレかそうでないかで見るの。わかった?」
僕は緩慢に頷く。
降り注ぐシャワーの粒のようにその言葉が僕の空っぽの胃の底に落ちて弾んだ。
水滴がいくつも地面を叩く向こうで、風がざわめき、遠くでプールを楽しむ人たちの声が聞こえる。笑い声、嬌声、ホイッスル。
頭の中でぐちゃぐちゃと混乱していた今日一日の出来事がゆっくりと洗い流されていく。
ふと、「意外だな」と言った伊比君の言葉を思い出した。
「伊比君は、知ってたの?」
近原さんが眉をしかめた。僕自身、自分の言っている言葉の意味が分からないまま続ける。
「近原さんが、女の子のひとりとして見られたくないこと、伊比君は知ってたんだよね、きっと」
「そうね」
彼女は虚脱したように表情を失って、ゆっくりと僕を地面に横たえて立ち上がる。
僕も隅の方に投げ飛ばされていたラッシュガードを拾ってよろけながら立ち上がる。シャワーに当てて、付着した小石のような汚れを落とす。そのまま近原さんにそれを羽織らせる。
「なに?」
鼻の付け根にしわを寄せ不快をあらわにする彼女に、僕はなだめるように掌を向けた。
「それ、着てて。見られたくないよね、多分」
触られること、汚されることを彼女は気にしていない。だから、変なことを言ってしまったかもしれない。
不安になりながら上目遣いで近原さんを見ると、彼女は目を大きく見開き顔を真っ赤にして硬直していた。
「な、なんで」
常に自分の意見をはきはきという彼女が、近原さんが、音もなく口を開閉する。
「それ、男物だから。大丈夫、そんな暑くないよ。僕は、疲れたから休憩所に行くね」
僕は少し不安になりながら、自分の両腕を、肘から下の部分を両方の掌でこするようにして胸元に引き寄せた。昔につけられた無数の傷が手の中でごつごつザラザラとその存在を訴えてくる。
「当たり前でしょ、男と女を着てる服でしか判断できないあなたの服が女性ものなわけないじゃない。いいわよ。着ていてあげるわ」
近原スナオはそう言って、ラッシュガードのチャックを首元まで引き上げた。
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