第2話:5%
◇◇◇
プールってどうして三十分も入れば疲れ果ててしまえるんだろうか。水中で動く気力を失った僕は、全周が視界に収まらないほど長い流水プールで流されていた。皆からはぐれるといけないからあまり遠くまで行くことはできない。マングローブを模した人工樹林が影を落とすエリアまで百メートルほど行っては迂回ルートを歩いて戻って、スライダーの列を確かめる。前坂君が全種類制覇するというので皆付き合っているのだ。僕は一回で目を回して大量の水を飲んだから、地上で待機している。
どうも全種類制覇ではなく全種類に修してようやく気が済んだらしく満足した太陽のような笑顔で、太陽が真上を少し過ぎたころ、前坂君は「お昼にしよう」と言い始めた。伊比君は彼に付き合うのにとっくに飽きていて、近くの競泳コースで知らない大学生と社会人相手に本気のレースを始めていて、近原さんが「自由過ぎるでしょ」と怒りながら入川さんとともにそれを観戦していて、入川さんは前々期にしていない風で浮き輪に捕まってプールの隅で浮きながらにこにこと伊比君達を見ていた。
カフェテラスエリアに移動しビーチパラソルの下に五つ椅子を並べる。
「何食べる? 好きなのそれぞれ選ぶ? とりあえず飲み物買っとく?」
前坂君はこのメンバー、先生が適当に割り振ったレポート班のメンバーをレポート課題の時からまとめてくれている。今日ここにいる誤認を呼び集めたのも彼で、行き先を決めたのも彼で、伊比君は最初いやそうな感じだったけど、最後には折れてみんなで遊ぶことになった。まとめているというより、彼がただ楽しいことを見んなとやりたいだけなのかもしれないけども。
ラッシュガードの水を絞っていると近原さんが僕の型を指先でどついてきた。
「痛い」
今日はなぜだか僕によく絡んでくる気がする。レポート班のときは、いろいろあったからほとんど会話をした記憶がない。
「ちょっと、あの男どもから目を離さないでね。せめて一緒にいて」
「どうして?」
「サングラス派手男は多分大丈夫だけど、伊比君はいけ好かないほど体格がいいし、ほっとくと面倒なことになりそう……」
途中まで言いかけて自分の失言に気づいたようにはっと目を見開いて口をつぐむ。おそらく入川さんより大きい目の吊り上がった目じりがぴくぴくと痙攣しているのが見えた。
「ねえ、ともかく、小寺亜樹がいないから仕方なく、あなたに頼むのよ」
どういうことだろう。わからなくて、わからないと返事をする代わりに僕は数度瞬きをした。
「はあ。ちょっとは考えてよ。女子がひとりでうろちょろしてたら危ないでしょ。あたしは入川さんとお手洗い行ってくるから。じゃあ頼んだわよ」
また肩を指先でどすどす突かれて痛さに顔をしかめる。悶えている間に彼女たちはお手洗いの方角へ去ってしまった。そして、前坂君と伊比君も気が付いたらいなくなっていた。
ほ、吐息をつく。近原さんには申し訳ないけども、前坂君達といると周囲の視線がものすごく気になってしまうのだ。理由はわからないけど、じわじわと遺産の味が喉の奥からこみあげてくるような気がする。だからさっきまでひとりで流水プールにいたわけで。吐き気が少しおさまるのを感じながら椅子に腰を下ろし背中を預けて息をゆっくりと吐き出す。
「ねえねえ」「すみません」「今ちょっといいですか?」
きゃははという笑い声とともに、僕の横に女性が三人詰め寄って来た。もちろん全員水着で、しかも化粧もしっかりした大学生のようで、視線を逃がすための目線のやり場を奪われた僕は分厚いまつげにおびえながら中央の女性の眉間を見上げた。
引いたはずの吐き気がまた戻ってきて、胃壁を痙攣させる。
「ええと、」
「あなた、さっきの人の弟?」
「顔全然違うし友達じゃない?」
「友達なら系統違い過ぎない?」
「確かに」
何の用ですかと問い返す間もなく女性たちは一斉に好き勝手な調子で喋り始めた。
「さっきの人たちさあ、何歳かな」
「大学生?」
「体格はいいけど、なんとなく線が細くない?」
「腹筋と胸襟すごかったよね」
伊比君と前坂君を品定めするような会話を聞いているのが苦しくて僕は何とか声を絞り出す。
「あの、ええと」
「友達?」
「あ、はい、多分」
「多分だって~」
下手くそな冗談を聞いたように彼女たちは顔を見合わせて笑い、そこに含まれた嘲りがキンキンと鼓膜をひっかくから、僕は袖で耳をぬぐった。
「じゃあ、高校生?」
僕はあいまいな笑みを顔面に張り付かせて首を斜めにかしげる。そのとき、
「いい加減にしなさい!」
女性の怒声が響き渡った。何事かと周囲の人波の動きが止まり、ざっと一点へ視線が向かう。さっきまで気持ちの悪い笑みを浮かべていた女性たちも、そちらへ振り返った。一番手前にいた女性の臀部が僕の手にぶつかって、僕は座っていた椅子から慌てて立ち上がる。
舌打ちをするように口元をまげて、彼女は僕を睨み上げた。
「すみません、わざとじゃ」
生ぬるい柔らかさが多足類のように手の甲へまとわりついている。ざわざわと腕を這い上がってきそうな気がして泣きたくなる。手を洗いたい。吐き気が上り詰めて、僕はきれいな方の手で口元を覆った。
「ジュースは買わないって言ってるでしょ!」
平手打ちの音が響き渡る。涙で霞む目で前方を見やると、若い女性が八歳くらいの男の子をしかりつけていた。男の子は叩かれたにもかかわらずどこを見ているのかわからない、無気力な無表情を保っている。体がゆら、ゆらと揺れている。
「ここで待ってなさい、いい?」
ゆっくりと首を振る男の子に、女性は怒気を顕わに般若のように顔を歪め、振りかざした手をなぎ下した。
僕は怖くなって目を強く閉じる。乾いた音と跳ねる水の音。さっきよりもずっと軽いものが静寂の空間を走り抜ける。周囲の人たちは固唾をのんでその親子、たぶん親子だと思う、を見守っている。
「何してるんですか?」
聞き覚えのある低い声がして、僕はうっすらと瞼を開いた。声の底に、強い怒りがにじんで震えている。伊比君が女性と男の子の間に立っていた。高校生にしてはかなり鍛えられた僧帽筋を跳ねさせて「はっ」と笑い声を漏らす。
僕は、人は、怒り狂うと痛いほど尖った笑顔になることもあるのだと知った。愛想笑い、のようなものを、細めた目、釣り上げた口角で彼は作り唇の間から見える白い歯が冴え冴えと光る。彼はどういうわけか、見たことがないくらい、怒っていた。
「これ、飲ませてあげてください」
何も持っていない右の掌を女性の前でくるりとひるがえし、左手に持ったジュースを差し出す。
「こらっ、知らない人から飲み物もらうな! みっともない! ちょっと、あんた誰よ。そんなものいらないっつーの!」
男の子を叱り飛ばしながらジュースを薙ぎ払おうとする女性の左手を伊比君は交わして、テーブルに紙コップを置いた。どうやら、さっきの軽い音は、伊比君が持っていたもうひとつのジュースをはたき飛ばしたものだったらしい。
「どうして?」
伊比君の声が地を這うように低い。対して応酬する女性の声は人目を微塵も憚らず高くてよく聞こえた。
「人様の家の教育方法に口出ししてくんじゃないよ! この子は妹の面倒すら見れないんだから、今日一日飲み物抜きなんだよ!」
テーブルに置いたジュースに六歳くらいの女の子がにやにや笑いながら手を伸ばしている。激高した女性は気づいていないようだったが、伊比君は目だけでその姿を追っていた。彼の背後で気が抜けたように座り込む男の子へ、前坂君が走り寄って、母親の視界に入らない位置でジュースを飲ませようとしている一連の皆の動きが、離れた位置から舞台劇のように見える。
「娘さん、いいんですか? 人の飲み物飲もうとしてますけど?」
「は? ちょっと、そこのあんた、勝手に何飲ませて」
女の子を指さされて視界を下方に転じた女性が前坂君に気づいて目を吊り上げた。
そこへ誰かが大股に近づいてきた。流れるように滑らかに握り拳をかざし地面に膝をつく前坂君へ殴り掛かって、そして拳が骨にぶつかる鈍い音が弾ける。けど、殴られてテーブルに沈んだのは彼をかばった伊比君だった。
「オレの子と妻になに絡んでんだテメェ! くそっ、お前らも見てんじゃねーよボケ!」
黒いサングラスをかけ、日に焼けた金髪の男が拳であたりを狒々のように威嚇する。
「おい、お前」
ゆっくりと立ち上がった伊比君のこめかみを赤いものが伝っていた。
めまい。ぐらりと、まるで僕自身が殴られ脳震盪を起こしたように視界の上下が回転する。たたらを踏んで堪える。巨大な多足類が右腕から肩へ、首元へ這いずり回る体感幻覚。
「あ?」
「ふざけんなクソが! 何やってんだよ、自分の子ども殺す気か!?」
「ああっ! 待って伊比、待て、人を殴るのはやばい、止まれ! 誰か! すみません! そっちの男性止めてください! お願いします! 早く!」
前坂君が伊比君を背後から羽交い絞めにして叫ぶ。周囲の人が幻覚から解かれたように動き出す。男性が何人か人垣から走り寄る。金髪の男性が、その人たちに取り押さえられる前にもう一度伊比君の顎を殴り飛ばす。前坂君に腕を封じられながら伊比君はその男を蹴り返す。
「なんで」
何が起こっているのかよくわからなかった。
伊比君が何かにあれほど感情的になるなんて想像していなかったから。違う。目の前で繰り広げられる暴力と、冷遇。それを当たり前のように弱者である自分の子どもへ振るう男女。彼らの姿が、視界の中で過去の記憶と重なって明滅する。
伊比君が地面へ血の混じった唾液を吐き捨てた。
やめて。殴らないで。蹴らないで。
ずるりと、僕の口の中へ体感幻覚が入り込む。血塗られたように真っ赤な頭とうごめく触角、無数の足が生えた黒くぬらぬらと光る長い体。巨大な幻覚のムカデが。僕の内臓をその足で撫でまわす。生臭いにおいの幻嗅。
喉をついて口の中に溢れる酸っぱい塊。舌を焼く胃酸と未消化の柔い食べ物。
限界点に達した吐き気に突き動かされて、僕はその場から逃げ出した。
立ち去る寸前、応援を無線で呼びながら走り来る監視スタッフの姿が視界の端に見えた。
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