第1話:37℃
◇◇◇
夏。夏だ。夏。
夏以外の単語でこの気温と天気を伝える気にはなれない。
ウェブウェザーニュースで熱中症警戒アラートがずっと赤文字で暴れているくらい、湿度も気温も高いここ数日。冷房の効いた屋内で読書でもして過ごすべきと目を開けないでもわかるまぶしい日差しを浴びながら、僕は六人乗りの国産車からコンクリートへ降りた。ビーチサンダル越しにゴムを溶かしかねない熱が足裏へ伝わり、あつっと小さく声が漏れる。独り言を誰かに聞かれなかったかとそっと周囲を見回したけど、皆車内の冷房がなくなった絶望とこれからの期待に歓声を上げていて、僕のことは気にしていないようだった。
「今年初めてのプール、楽しみすぎるぜ~」
サングラスを頭上から降ろして装着しながら、六人の中で一番長身の前坂鷹来が嬉しそうに口角を上げる。彼がまとうのはオレンジ色の派手なアロハシャツとこれもカラフルな柄の入った黒地の短パンで、遠目に見れば近づくと恫喝してくる怖い人に見えるだろうなと思う。本人はその真逆の性格で、どこまでも他人想いの優しい人なのだけど。
「浮き輪とか荷物とりあえず下すぞ」
助手席から出て車の前方を回って来た伊比倭がその彼の肩を叩きながら、僕の横を通ってトランク側へ移動する。身長は百七十センチメートル後半後半だと思うが、体格がよく常に人を食ったような表情をしている彼が近くに来ると、そんなことはないのに威圧されたような気がして僕は少し後ずさった。
残りの乗客のうちふたりはクラスの女子だったけどふたりとも車内では一切喋らず、多分前坂君が今日のために声をかけなければ乗りあうこともなかったのだろうなと思う。しかも、最後部座席に僕と一緒に座っていた女の子は、ずっと目深に厚い前髪を下し、車内に差し込む日差しで鼻先に汗を浮かべながら寝息を立てていた。トランクの開く音でようやく気が付いて降りてきた彼女、近原スナオは、よく寝たとばかりに両手の拳を空へ突き上げて背中を伸ばしている。その子の顔を覗き込んだもうひとりの女子、入川舞夏は汚いものを見たように目を見開いて、ポーチから取り出したウェットティッシュのようなもので彼女の顔面をぐいぐいと拭き始めた。
その光景がなぜか不思議なものに感じる。違和感がざわざわと皮膚に走る。
クラスで浮いている近原さんは、むしろ、進んで女子からパシられたりハブられたりしているように見えるときがあった。学年で一二を争う美少女と男子の間で噂される入川さんは、近原さんを冷遇する女子のグループにいたはず。だから、学校の外で二人の距離がいつもよりだいぶ近いように見えて混乱する。
「秀英、これとこれ持ってくれる?」
頭の整理がつかないまま、そろそろと足を忍ばせながらトランクの方へにじり寄ると、目ざとく気付いてくれた前坂君が小さめの荷物をふたつ手渡してきた。多分遊具とタオルが入っているのだろう。あまり重たくはない。什器等重たいものは前坂君と伊比君が持ってくれている。
「学生諸君、大人の仕事はここまででいいかな~? 誰一人として免許持ってないとかないでしょ」
運転席から顔を出してドレッドヘアの女性が怠そうにこちらを振り返る。彼女は鮮やかな紫のアイシャドウと黒いアイラインで縁どられた目をじろりと動かして、伊比君の方を睨みつけた。
「やだなあ、俺ら高二ですよ」
確か苫田と名乗っていた彼女ににやにや笑って近づきながら伊比君は返答する。
「ありがとうございます。苫田さんがいてくれて助かりました。後は夕方まで近くで時間をつぶしててもらって大丈夫ですよ。お酒だけは飲まないでくださいね」
「昨日から禁酒してるわよ。あー、あっつい、私も水浴びしたくなってきた」
「誰も見たくないですって。じゃあ後で連絡するんで」
苫田さんと会話を続ける伊比君の腕を、入川さんが不満げに引っ張るのを尻目に、僕と前坂君と近原さんは入場券売り場へ向かう。ここは海なし県なので、夏のプールは千葉の遊園地のように人でごった返すし、駐車場もだだっ広い。プールへたどり着く前に日差しで燃やされて死ぬんじゃないかと思う。
「なんで浅岡君、長袖なの? 暑くない? 脱げば?」
僕を追い抜かしざま近原さんが心底うっとうしそうに吐き捨てて行った。クラスで女子から疎まれている彼女は、最近以前の消極的な雰囲気とは逆に勝気な言葉を口にすることがある。とっくに数メートル先となったその小さな背中に言い返すこともできないまま、僕は荷物をひとつ肩にかけ日傘を開いた。
◇◇◇
昨年の夏の終わりこの地方に引っ越してきた僕は、この大型プールに来るのは全くの初めてだった。ウォータースライダー、周遊できるプール、波の揺れを楽しめるプールといろいろあるらしい。泳ぎたい人は存分に泳げる競泳用プールもある。サファリパークをイメージした外観の施設のあちこちに人工樹脂で作られたヤシの木がそびえたちキリンや像、ライオンの姿をした噴水や小型のスライダー、ジャグジーが点在していた。
「意外だな」
ぽつりと伊比君がそう言った。
うまく聞き取れなかった僕は、言葉の意味を知るために彼の目線の先を追って近原さんの姿をとらえる。真っ白な肌に真っ黒なビキニが夏の紫外線を受けて黒曜石のように見えた。襟足を眺めにしたウルフヘアの内側を冴えたピンク色に染めた彼女によく似合っている。
「近原さん、羽織り要らないの?」
「暑いし要らないわ」
「逆に日差しから逃げられなくない?」
鷹の舞う竹藪が描かれた海水パンツをはいた前坂君が、手で庇を作りながら不思議そうに言った。
「ねえ、舞……入川さんは?」
口をもごもごさせながら近原さんは周囲を見回す。
「まだ」
伊比君が答え、フン、と近原さんは鼻を鳴らして応答した。
「ねえ」
「ぎゃっ」
唐突に背中へ手を突っ込まれて僕は悲鳴を上げる。
「ラッシュガード? これ」
更衣室から出てきたばかりの彼女の指は、十本とも冷たい。それが背中でピアノを弾くようにタタン、と動く。
「そう、だけど。手、出してほしい」
「誰もあなたのこと、気にかけたりしないわよ」
耳元で囁くように言われた言葉にはあざけるような響きがあって、うっすらと吐き気が胃袋の底へたまる。
「こんなの着てるの、紋々入れたやくざじゃあるまいし」
近原さんは、というよりも、僕のクラスの人はみなもうすでに知っていることだが、僕の両腕が今まで受けたいじめのせいで傷跡だらけでぐちゃぐちゃなのを知っている。いつから積み重なったものなのか、よく思い出せない。始まりは小学校の低学年の頃で、そのうち気が付けば痕の残る暴力を振るわれるようになっていた。彼女はそのことを言っているのだ。
「見た人が不愉快になっても、そいつの勝手でしょ」
そうだったとしても、僕は僕のせいでだれかが気分を害することが許せないだろう。僕の行動のひとつひとつが、伊比君のように明確な意思表示を好む人にとって元来不愉快なものだろうと想像がつくけど、それでも、少しでも、人を不愉快にさせることから距離を取りたいと思う。
「怪我、治ったんだね。良かった」
袖の中に腕を突っ込まれそうになって慌てて距離を取り振り返りながらぎこちなく笑うと、彼女は一瞬きょとんとして「ああ、そうね」とこぼした。「治癒能力だけは高いの」と続ける近原さんは、寸前自分が何をしようとしていたかあまり意識していないようで、彼女を振り払った罪悪感にじわじわ胸を焼かれつつあった僕は安堵する。
「お待たせ~」
手をぶんぶん振りながら入川さんが遠くから朗らかな声を投げてきた。輝く笑顔と、細められていてもわかる大きな目、薄い唇に縁どられきれいに並ぶ歯と、小さな鼻。普段の学生服を脱いでひときわ際立つスレンダーな手足。遠目にもわかる美少女。彼女の近くにいた人は、皆彼女を視界に入れれば、太陽に引き付けられるひまわりのように数十度顔を動かし彼女の行く先を追う。その向かう先に伊比君と前坂君を見つけて、男性は興味を失って目をそらし、女性は半数ほどそのまましばらくこちらを見つめ続ける。
前坂君はともかく格好が派手だし背が高くてそれだけで人目を引くし、伊比君はシックな恰好なのに前坂君と並んで遜色のないオーラがある。派手な水着を着ているわけではないけど、たたずまいが派手なのだ。堂々としていて、自信があるように見える。それでいて周囲を品定めするような目が、堀りの深い眼窩の陰で冷たく光る。
「小寺さんも来れたらよかったな」
会えてなのかわざとなのか僕らのもとに入川さんが到着するなり伊比君がそう言って、入川さんが口をとがらせる。
「亜樹は……」
彼女は、ちらと伊比君の表情を見て、それから前坂君の方を一瞥した。
「行きたいけど行きたくないけど行きたいって言ってた。家族と旅行の予定がなかったらよかったのにね」
ぼんやりと人の動きを見ていた僕は、近原さんが前方の男性の視線を避けるように再び僕の背後に移動して隠れたことに気づいていなかった。彼女も彼女で威風堂々としたかわいさがあるから、人の目を引き付けてしまうらしい。これは自分で後日自慢げに胸を張りながら言っていた。
つまり僕らは、僕を除いて、プールという空間で人からちらほら干渉される存在になっているらしいとおぼろげに認識する。なんとなく居心地が悪くて、袖口をぐい、と引き伸ばして手の甲を覆った。
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