藍色

 兄が死んだ。


 部活が早く終わった。お土産を持っていつもの病室に行った。その時は普段と変わらない、温かい部屋だった。新品の万年筆で、新品の手帳に何を書くか、考えあぐねていた。


 まさかその翌日に、冷たい兄に会うだなんて思わなかった。


 明日は何を話そうとか、何を持っていこうとか、考えていた。なんならもう紙袋に入れてスクールバッグと一緒に準備していた。


 部屋にはそれまでの温かさは全くなく、時計の秒針だけが無慈悲に響いていた。初めてその音を聞いた気がした。

 両親はもうすぐ来る。本当は二人とも仕事だったけれど休みを取ったと連絡があった。紫音も部活を休んだ。しばらくは顔を出さなくても良いだろう。最愛の人を失って間もないのに、演奏などできる気がしない。基礎練も譜読みも手につきそうにない。

「でも、一度は聞いて欲しかったんだ。俺の音。響はコンサートとか行きたそうにしてたから。まだ、二年しか吹いてないけど。大会とか、文化祭とか、心底どうでも良かった。他の誰でもない、響のために、練習してた。」


実際、紫音は先輩を差し置いてソロに抜擢された。妬み嫉みはたいそうなものだった。基礎練は見てもらえない。パート練習も一苦労。よく夏を乗り越えたなぁと他人事のように思っていた。


「金管楽器、かっこいいじゃん。俺さ、トロンボーン吹いてみたかったんだよね。フォルムとか音とか全部憧れてた。でも体に響そうじゃね?なんか野太くて。やっぱ派手な音だし。だから木管にしようって思った。そんで、変わった音が出るやつ。リード代バカにならないけど。オーボエ、知ってる?可愛い音が出るんだ。最初は一音も出せなかった。ほんと、ずっと頑張ったんだ。酸欠も筋肉痛も全然苦しくなかった」


 響の手は陽にさらされることもなく、力仕事も水場の作業もできなかったせいか、華奢で陶器のように白い。紫音の手が重なると一層際立つ。十四歳を迎えて日は経っていないが、身体だけ比べれば紫音の方が兄らしく見える。楽器を吹くためにブレストレーニングや筋トレをしていたし、シンプルに頑丈だった。何ともアンバランスな兄弟なんだと、何度も思った。それに、響が本来持つべき強さを自分が持っていってしまったのかとも感じたことがあった。神様は不公平だ。

 文字通り、人形のようになった響を前に、ぼんやりと立っていた。先生たちは気を使って親が来るまでは退室してくれている。何か伝えたくて仕方がない。もう返事はないけど、響のことだ。聞いてくれる。いつも紫音のお喋りを笑っていた。


「響の日記帳、貰っていい?読まれたくないかな。でも響、俺とか家族のこととか、聞くばかりだったから気になるんだ。俺のことどう思ってたのかってさ。本当は生きて、やりたいことあったんじゃないかって。あれだけ本読んでたらちょっとは憧れるでしょ。それ、教えて欲しいんだ。もう遅い?俺が代わりにやるのは嫌?」

言いたいことがなかなかまとまらない。頭の中も、顔も、ぐちゃぐちゃになっていた。いつか話したことがある。涙って砂糖味にならないかなって。そうしたら少しはマシなのにって。響は最近何味を所望したのだろう。そもそも泣いてるところなんてしばらく見てないからもう気にしてなかったかもしれない。

 それも、どこかに書いていないだろうか。



 次に会うのはお葬式だ。両親が到着して数分で別の場所に移動することになった。大人とはどうしてこうもあっさりしているのかと、理解が追いつかない。紫音の気持ちが、まるでわがままみたいだ。

 人は生きている以上必ず死ぬ。そんなことは分かっている。それでも、どうしてもまだ受け入れたくはなかった。だって二つしか変わらない。大人にすらなってない。

 しかし存分に泣くことができなくなるなら、絶望に慣れてしまうなら、子どものまま消えてしまう方がいい。今の光景を見たら、そう思えてしまった。

「母さん、父さん、響の物、全部、頂戴」








 二週間ぶりの部室はそれまでより明るく見えた。正月気分は抜けているが春に演奏会を控えている。三年生は引退したから紫音を雑に扱う人はいなくなった。

 でも一週間ほど前までは、紫音は部活を辞めてしまうつもりでいた。聞かせたい人がいない。演奏する意味がない。退部届まで書き切っていた。その後、なんとなく響の日記帳を開いた。九冊目だった。丁度紫音が音楽に触れた頃だ。あまり学校の話はしない方が良いと思っていた紫音も、吹奏楽部に入ったことだけは伝えていた。はっきりと、紫音の音をいつか聞いてみたいと書かれていた。それも、一日だけではなかった。

 楽器を辞めるわけにはいかなくなった。むしろ天国までちゃんと届くように演奏しなければいけない。嫌な先輩達はもう受験で忙しいから卒業まで顔を出すことはないだろう。それならもう少し、在籍しておくことにした。響のために。

 ブレストレーニング、音出し、チューニング、基礎練を順番にこなし、曲の練習に移る。後輩のいない紫音は贅沢に一人部屋を使ってパート練習に備えた。三十分後にはフルート部屋に行かないといけない。ブランクを放置していると迷惑をかけてしまう。



「あ、城ヶ崎、リハビリできた?ちょっと早いけど合わせよ」

「合奏早まった?もう少し待って欲しいんだけど」

フルートのパートリーダーことにのまえはノックもせずに紫音の部屋に入った。びっくりするから辞めてくれと毎回言っていたけれど野郎には聞き入れてもらえず、もう諦めてしまった。別に慣れたわけではない。楽器に何かあったらどうするんだといつも思っている。

「そうじゃないけど、時間あるし一人は寂しいだろ」

「お気遣いどーも。ロングトーン済ませたら行く」

扉を閉めてすぐに十六拍、二拍で息を流す。

 一人が寂しいなんて、ずっと昔に感じなくなっている。今は寂しいなんて言葉じゃどう考えても足りない。八拍では頭が空っぽにならなかった。倍にして、無理矢理心を整える。本当は三十二拍にしたかった。でも待たせるのは気が引ける。それにそこまでやっていると他のパートから変態ロングトーンとかいう不名誉なあだ名がついてしまった。良い練習だというのに。すごく良い、精神統一だというのに。

 苦しいものも、峠を越えれば快楽になる。ここに立っていないなんて、気の毒だ。


「お待たせ。もう大丈夫」

「オッケー、そこの椅子使って。チューニングしよっか」

パートリーダーが変わったおかげか、雰囲気がかなり軽やかになっている。身体に入ってくる音が、以前よりずっと透き通っているように思えた。この上なく、吹きやすい。自分はここにこんな音を重ねると上手くいくと、手に取るように分かる。チューナーを使う必要がない。

 全員、のびのびと音を出している。夏では考えられなかった。

 ただただ楽しく練習するのは良くないとは思う。氷水で締めることも大事だから。そうすると上手くなる。でもずっと冷たい所にいるとかえって火傷もする。その塩梅の調整が、今年はひどく下手くそだった。息を流さないと良い音は出せないのに、息が詰まっていた。ソロパートなんてどうでも良いくらいに。

 次にステージに上がるのは校外の演奏会だ。クラシックに加えてポップスを披露する。

 紫音はオカルトを信じているわけではない。でも弱い身体に縛られなくなった時から、ずっと近くにいる気がしている。だから自分史上、最高の音を出したい。


「そういえば、曲全部決まったんだよ。年明けすぐに。楽譜とスコア、渡しておくよ。オーボエ、見せ場いっぱい用意してもらったから気張りな」

一はさらりと、何でもない日常みたいに重要なことを言う。そういえば、なんて馬鹿みたいだ。今は基礎練習のメニューの途中だと言うのに。

「リクエストとかできんだ」

「めっちゃ頑張った」

言いたいことはそれなりにある。とは言え、一の遠い目線を見ると流してしまっても良い気がしてくる。

「そ。ありがとう。で、これ今日合奏とか」

「コンマスからは音合わせくらいって聞いてる。先生がどれくらい進めるかわかんねぇけど」

「分かった。じゃあハーモニーやったら抜ける。譜読みしてくるから」


 フルートの子たちには申し訳ないが紫音は天才ではない。一回でできたらどれほど楽だろうかと、いつもいつも思っている。ついでにスコアも一読だけで頭に入ったら便利なのに、とも思う。大会と違って曲数が多い。最も効率的な選択をしたかった。

「だめだ。イングリッシュホルン出さなきゃじゃん。あ、ストラップどこにしまってたかな。リード残りどれくらいだ?いや、あと10分しかない。とにかく要るもの全部見つけないと」


 




 緊張から解放された頃には人工の灯りが煌々と街を照らしていた。スマホを確認すると両親から連絡が来ていた。今日も晩御飯はひとりだ。

 紫音は頭の中でメニュー表をめくる。たった14年の人生でも作れるものはたくさんある。

 それはそれとして、通学路にあるコンビニのホットスナックが美味しそうだ。寒い時期は特に食べたくなる。

「春巻き、いいなぁ。材料買って帰ろ」

 

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スケジュール帳 狂花 @andrea

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