スケジュール帳

狂花

10冊目の手帳

 今年はワインレッドの革を選んだ。いつも彩度が極端に低いものを使っていたから。何せ最近はずっと体調が悪い。なんとなく、「次」が無いような気がしてしまうのだ。

 真っ白なベッドによく映える手帳だ。少しは気分が上がるかもしれない。最初の一文字は何にしよう。自分の名前は書くとして、何を書こう。いつもの日記でもいいけれど、変わり映えなどしない。もっと何か残したい。声はいずれ忘れられてしまう。身体もそのうち崩れて無に帰る。文字でなければ。

 それに、握力が弱くなっていったっていうので万年筆を用意してもらったんだ。ボールペンは意外と力を使う。俺は「書く」ことが好きだから。そのことを先生達も知っているから。それだけは手放せなかった。

 調整してもらった万年筆には「城ヶ崎響」と刻印されている。アルファベットでも平仮名でもなく、漢字で。昔は読めなかったけど、図書館の本を読みつくしてからは分かるようになった。

 義務教育は大して受けていない。いや、受けられない。受けても意味がない。時計の文字盤と、日本語が分かればなんとかなる。

 世間の15歳児はもっと学があるのだろうか。高校生になるのだから。自分の部屋からは外の様子はあまり見えない。人が点のようで服装なんて分からないし、話し声だって聞こえない。

 小説で読んだことがあった。一般的に学生にはテストや模試がある。人によっては部活動がある。放課後にカラオケに行ったりモールに行ったりしてそれぞれの青春を過ごす。

 不思議なことに、生徒間で傷害や差別が起こることもある。いや、何かとそういった描写が多かったと思う。あれは本当なんだろうか。点滴もマスクも必要ない、健康な身体を持っているのに。みんな、同じなのに。誰もが経験する閉鎖空間だとそうなるのが当たり前なのかもしれない。

 ここでそれが無いのは、各々が自分の地獄で手一杯だからかな。生きてるだけで万々歳。昨日が来た安心感を今日も抱えている。明日が来ることを希っている。

「響ー、ただいま。調子はどう?万年筆試した?」

午後3時、個室に入ってきた弟は学ランではなく学校指定のジャージを着ていた。右肩に楽器ケースを提げて、右手にはスクールバッグといつもの文房具屋の紙袋を持っている。

 正月明けてすぐにも関わらず、汗だくだ。

「おかえり紫音。試すのはこれからだよ。一筆目は大事にしないとだから」

「そういうものなんだ。あ、これ、インクと付箋とシール、買ってきた。響が好きそうなの見つけちゃって」

「ありがとう。でもお小遣いは自分のために使えって何度も言ってるだろう」

紫音はアルバイトなるものはしていない。禁止されてるわけではないけど時間的に余裕がないらしい。それもそのはずだ。話を聞いたことはないものの、吹奏楽部というのは拘束時間が想像以上に長い。面会は決まって日が沈んでからだ。

「いやぁー、お年玉いっぱい貰ったしさ。貯金以外の使い道ないからいいじゃん。それよりこのシール可愛いでしょ」

指さされたのは金の箔押しが施された流れ星のシールだった。

 確かに、趣味ではあった。昔は割と本気で願い事をしていたもので。本当によく覚えている。

「あと部活無くて暇だったからブックカバー作ってみたんだ。使ってみて」

インクやらシールやらを箱の中に仕舞っていると今度は縹色の毛糸でできたカバーが付いた本を渡された。文庫本の大きさで暖かくて使いやすそうだ。でも今までこんな趣味があると聞いたことはない。新しく始めたんだろうか。器用な子だ。

 俺の感心をよそに、紫音は課題らしきものを取り出した。終わってないんだよね、とか言いながら。全然、暇じゃないだろという言葉をとりあえず飲み込む。ブックカバーを受け取ってしまったし、責めるのは可哀そうかもしれない。

「この本は紫音の?」

「いや、違うよ。本屋で平置きされてたやつ」

きっと紫音には俺の言うことを聞く気がない。正月だから余計に拍車がかかっている。

 本の題名を見たところ、多分ミステリだ。ここの図書室には数が少ないジャンルの一つ。そういえば結構前に興味があるって言った気がしてきた。半年くらいは経っている。

「まぁ、とにかくありがとう。もう帰りな。ここじゃ終わらないでしょ」

「嫌だ。検査まだならそれまでいる」

「今日はもう済んでるから。また落ち着いたら来てよ」

「わかった。あとで父さんが来ると思う。何時か分からないけど。母さんは今日忙しいらしいから。急ぎのものあったら連絡して」




 紫音が帰った時はまだ明るかったけど、微睡んでいる間に星の出番が来たみたいだった。父さんも荷物と手紙を置いて帰宅したらしい。これから二人で晩御飯だろう。

 羨ましくないわけがない。何不自由なく食事ができたら、孤食なんてしなくて済むなら。もっとこの時間が好きだったかもしれない。味のしないモノを咀嚼するのは慣れているものの気分が下がる。焼肉とかピザとか食べてみたい。味が濃いやつ。基本薄い味付けだから。たまに変わったと思ったら塩味が後から追加されただけだった。本当に虚しいものだ。醤油味の涙とか出せるようにならないかな。タバスコ味もいい。

 

 そんなくだらない願望はさておき、父さんが持ってきてくれた鞄にはいつも使っている肌着とアイマスクがパンパンに詰まっていた。外ポケットには四葉のクローバーの押し花で出来た栞と本が入っていた。仕事終わりか休みの日か、わざわざ買いに行ってくれたみたいだ。表紙だけ見ると恋愛小説っぽい。前回読んだのはかなり甘めのテイストだったけど、今回は多分違う。

 父さんは読書をしないタイプだから意外だと毎度思っている。したとしても仕事で必要なものだったり、自己啓発だったり、とにかく生真面目なものだって聞いている。誰かにアドバイスでも貰っているのだろうか。あるいは、俺が知らないだけか。

 考えたところで俺には時間がない。とにかくたくさん読ませてもらえているし、そこは甘えていよう。せっかくいろんな人生を体験できるんだ。今のうち。

 でも今日は本当に眠たい。文字が入ってこない。ただただ右から左に流れている。これでは対話にもならない。起きたばかりってことは一旦無視してもう一度夢を見よう。



 同じ夢を見る。当然だ。毎日、同じことを繰り返しているのだから。生憎第六感は備わってない。そのうち迎えの人にでも会うかも、とか思うけれど、結局脳とはそういうものだ。外で遊ぶ自分も、友達をたくさん作っている自分も経験したことが無いし、想像もつかない。だから無意識下で再生されることもない。


 「夢」くらい見たかった。


 眠りが浅かったのか、昼寝をしすぎたか。窓から月が見える。これくらいの時間だと夢と地続きに感じてしまう。起きていたら先生たちに何か言われそうだ。

 それにしても月影は冷たくて優しい。肌を焼く感じがなく、目にも刺さらない。まっすぐ見ていられる。どうせ逝くならああいうところがいい。ひんやりしていて気持ちよさそうだ。響からすれば天国だろうが地獄だろうが暑すぎる。静かに夜を眺めていたい。あわよくば、自分に付きっ切りだった紫音の未来を見守っていたい。

「別に、地縛霊とか、なりたいわけじゃないけど」

無音の部屋でぽつりと呟く。

 生まれた時から早死が決まっている。響自身、自分には何の未練もない。ただ一つ心残りがあるとしたら弟のことだ。

 早々に命をくれてやるのだからそれくらい聞いてくれないだろうか。月に連れて行ってくれと。でも神様ってどこまで残酷で寛大なのかよく分からない。

 ぐるぐる考えていると部屋の扉が開く音がした。巡回の看護師さんか先生か。

「起きているのかい。この時間はいつも寝ているのに」

「こんなに綺麗な月が見れるなら昼夜逆転しようかなって」

「そんなに気に入ったんだね。僕としては寝てくれるとありがたいんだけど」

「…分かってる。昼に寝すぎた」

「気分が悪いとか違和感とかあるなら早めに頼むよ」

それだけ言って先生は部屋から出て行った。


「ねぇ、先生」


「最初に書く言葉、決めたんだ」


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