第3話 1回目の音大受験
年が明け、音大入試への挑戦が始まった。
センター試験は自宅から30キロほど離れた大学の試験会場だったため、夫が車で送って行き、夕方迎えに行って無事終了した。
夜8時過ぎには模範解答が発表され、自己採点の結果、英語53%、国語55%という出来だった。
2月26日から3日間に渡って、東京藝術大学音楽学部クラリネット専攻試験の第1日目が行われた。
1日目の試験は、1人ずつ課題に沿ったクラリネットの基本実技を試されるものだった。
クラリネットだけで43人が受験し、息子の受験番号は「24」、試験は27日午後の1番目と指定された。
当日は、私が息子とともに電車で上野駅まで行き、公園を通って藝大の正門まで一緒に行った。
公園内を散歩しながら待っていると、試験を終えた息子が正門から出て来た。
親の心配をよそに、あそこができなかったとか、音が出なかったなどとネガティブなことばかりを言う息子と一緒に、私は悶々としながら家に帰った。
試験第1日目の結果発表は、3月2日の午後4時、藝大内の掲示板に貼られることになっていた。
当日は日曜日ということで、夫が車で連れて行き、私は用事があって家で待機することにした。
午後4時になった。
連絡は無い。
1分、2分、3分たっても無い。
駄目だったのか。
そのまま10分がたったとき、携帯が鳴った。
「あったよ!」
息子の声だった。
「合格したの?」
「うん」
息子は興奮した声で答えた。
こうして、息子は土俵に乗った。
まあ、国内最高峰の芸術大学において、まぐれはあり得ないだろうから、今までノンタイトルだった息子は、このときをもって「公認」されたことになり、親としては多少報われた気持ちになった。
しかしこうなると、素人の浅ましさがむくむくと湧いて来る。
家族全員がそう状態になり、前向きを通り越して、前のめりな感じの会話が飛び交った。
「なんか、受かるような気がしてしようがない」
「日本の14人に入ったということは、世界でも良いところに行くんじゃないか」
「ソロコンに出てればグランプリ取れた。でも、田舎じゃ分かってもらえないかも」
家庭内では、傍若無人の会話が平気で交わされた。
うちの家族は、少年少女オーケストラのオーディションの頃から、まったく変わっていなかった。
3月4日、2次試験も午後1番だった。
息子は、前日から先生の家に泊まり、当日の午前中までみっちりとレッスンを受けて試験に臨んだ。
試験が終わって出てきた息子は、また微妙なことを言った。
自分の前の受験者が試験を受けている様子が聴こえて来たが、練習をしていないパートが出題されていた。
つまり「〇〇の曲の〇小節から〇小節までを吹きなさい」みたいな試験なのだが、それがヤマを張った部分と違っていた訳だ。
楽譜は見ることができないから、暗譜していなければ話にならない。
息子は、慌てて楽譜を引っ張り出して暗譜しようと試みたが、時すでに遅し、試験は始まってしまった。
昔、1回吹いたことはあったものの、暗譜していないパートにさしかかると、突然音が止まってしまったらしい。
普通なら、これでメロメロになるところだろうが、さすがに厳しいレッスンを受けてきただけのことはあって、2曲めで逆転を試みたらしい。
そして、息子によると 2曲目はいままでで最高の演奏だったという。
試験官は、既に1曲目の判定を用紙に記していたが、 2曲目が始まると 一斉に消しゴムで消して書き直していたというのだ。
だから、失敗はしたが「もしかしたら、行けたかもしれない」ということで、そんなには落ち込んではいなかった。
早速、その日の夕方から三次試験に向けたレッスンが始まった。
3次試験は、楽典、聴音、ソルフェージュと副科ピアノだから、クラリネットとは違う先生に教わる必要があった。
「3次まで行けば、何とかなるのではないか」
甘い期待があった。
万が一ということもあって、先生も慌てて3次試験のためのレッスンを受けさせたのだろう。
レッスンは、2次合格発表の3月7日の午前中まで続いた。
3月7日の午後、私と息子は上野駅で待ち合わせ、上野公園で時間をつぶした。
西郷さんの銅像を見て、公園の中も見学した。
午後4時前に校門前に着き、4時ちょうどに係員の案内で校内に入った。
そして、掲示された紙には7人分の番号が記されていたが、果して「24番」は無かった。
落ちた。
しばらく無言で掲示された紙を見続けた後、どちらからともなく連絡を入れなければならないことを思い出した。
私は夫に電話した。
職場で待ちわびていたらしく、すぐに出た夫も沈んだ声で「そうか」と言っただけだった。
息子は、お世話になった先生に電話をし、電話に出ない先生にはメールをした。
そして、親子は再び上野公園を歩いて帰った。
彼は、まだ実感が湧かないようで、それほど落ち込んだ風ではなかったが、途中の駐車場から自家用車に乗り換えると、後部席で寝転がって目をつぶっていた。
その夜、クラリネットの先生から電話が入った。
私は初めてまともに先生と話をした。
先生はこの2年間を振り返り、最初は何かの治療の一環として預けられたのかと思ったこと。基本が全くダメだったこと。吹奏楽でちょっと上手いからといって調子に乗っていたこと。今までで一番叱った生徒だったこと等を話した。
そして私に、
「もう1年、自分の下でやるもりはありますか?」
と訊いてきた。
先生にとって、毎年、この日のこの質問が1番苦しい瞬間だろう。
私はこれまでの数々の非礼を詫びるとともに、
「先生しかいませんから、もう1年よろしくお願いします」
と答えた。
長い1年が始まった。
発表の翌朝、起きてきた息子の様子を
「あ―っ、落ちたんだぁ……」
と言って見せた。
家族も、先生も、もちろん本人も「もう一度受験する」ということで納得した。
それでもダメだったらどうするのか。どうしたら良いのかという疑間は、今は誰も口にしない。
しかし、それは親としては考えない訳にはいかないことだった。
駄目なら私立に行けば良いのかもしれない。
確かに、豊かな才能と豊かな財力があればどんな学校だって構わない。
とにかく、音楽ができる環境にいさえすれば、コンテストだって出場できるし、海外の音楽院にだって行ける。
しかし、現実問題として、私立の学費の高さはやはり気になる。
夫はいろいろ計算して、私立なら教育ローンを借りると言うが、家や車ならともかく、これはまったくの無担保だ。
しかも定年まで5年という彼の年齢を考えると、返済のほとんどは退職金頼みになってしまう。
この時期、夫と2人になったときの会話は常にこのテーマに集中した。
でも最後は、どちらからともなく「国立に受かるしかない」という結論に達し、そこで終了した。
春は、地区のコンサートに出たり、自動車教習所に通ったりして過ごした。
夏は、地元の高校や中学の吹奏楽部に指導に行ったりしてけっこう忙しく動き回っていた。
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