第2話 中学、高校時代

 中学に入ると、息子は早速、吹奏楽部に入った。

 楽器はどうしようかと迷った挙げ句、クラリネットに決めた。

 なぜか?

 でかいチューバに懲りたから。

 コンパクトに折りたためる楽器にしたかったから、というのが本音らしい。

 これが息子とクラリネットとの出会いだった。

 この頃になると、親も、楽器の相場を分かってきて、一瞬たじろいだものの、とりあえずは学校のクラリネットを貸してもらえるという話を聞いて安堵した。

 ただしこのときは、この楽器に「リード」なる消耗品が必要だということは、もちろん知らなかった。


 中学の吹奏楽部には、優しい女性の先生がいて、生徒の自主性を重んじた指導が行われていた。

 コンクールなどでの成績はそれほど振るわなかったが、音楽を楽しむことや考えることは十分に学べたようだ。

 例えば他の強豪中学では、コンテスト用の曲だけを徹底的にたたき込むという練習法を取り入れ、全国大会にも頻繁ひんぱんに出場していた。

 私が「凄いね」と言うと、息子が反論したことを覚えている。

 音楽は中学だけではないし、コンテストだけでもない。個人個人が考え、上手くならなければ楽しくないし、世の中には通用しない。

 確かそう言った。

 それは正しい。

 立派だ。

 だけど、親としては全国大会に出てくれたら、やっぱり嬉しい。

 高い金を払って楽器を買った甲斐があったと思う。

 理想は理想だが、たまには喜ばせてくれないと親のテンションがもたない。

 それでも息子は「それでは駄目なんだ」、「生徒の自主性を重んじるうちの先生の方が良いんだ」と引き下がらず、それを証明するかのように、その年の市内のソロコンテストでは借り物のクラリネットで金賞(空金からきん)を取ってみせた。

 このときは夫が会場で聴いていたが、今だにあのときの演奏は良かったと言っている。


 息子は高校に入り、念願のピアノ(中古のアップライト)と自分のクラリネットを買った。

 親はとても悩んだが、中学のソロコンを聴いた頃から夫がすっかり息子寄りになり、「とことんやれ」と言って煽り始めた。

 高校は吹奏楽部としては、B組(編成人数の違いでA組とB組に分かれる)ながら東関東大会の常連だった。

 さらにその指導方針は、生徒の自主性にゆだねられ、先生は指揮をする程度という、息子の理想にぴったりな高校だった。

 家から自転車で行けて、練習時間が確保できるということも理由だった。

 この本気の行動に、親はだんだんと心配になってきた。

 4歳の時に言った「ピアノやりたい」を思い出した。

 高校の次は就職か大学だから、この3年間が最後の進路選択の場となるだろう。

 しかし、もう親ではどうにもならない。

 誰か偉い先生に最後通告をしてもらわないと絶対に辞めることはないだろう。


 1年生の終わりころ、市のソロコンで、再度、金賞(空金からきん)をとった。

 悪いことに、各楽器の審査員のうち、クラリネットの審査員は最高点をつけていたということを後で聞いたものだから、さらに抜き差しならない状況となった。

 夫が「私立は経済的に無理だが、国立なら行かしてやる」ということを吹き込んだため、息子は本気で東京藝大を目指すと言い出した。

 夫としては、そう言えば諦めざるを得ないだろうと思って言ったらしいが、母親が言うのも何だけど、息子はそれほど賢くない。

 学校でも「父が東京藝大に入って音楽をやれと言った」と言いふらしているらしかった。

 ちなみにこの後、2011年東日本大震災の影響で県大会は中止となり、息子の挫折はまた先伸ばしになった。


 2年生になり、楽器屋さんの紹介で東京在住のクラリネットの先生を紹介してもらった。

 親としては、息子が「才能あり」か「凡人」なのかを正式に判定してもらえるチャンスだと思った。

 先生に見てもらって、最後通告を言い渡してもらえればというのが本音だった。

 初レッスンの間、私は駅で待っていた。

 レッスンを終えると、先生も息子と一緒に駅までやって来た。

「本当に東京藝大を受けさせるのか」ということを確認された。

 親としては、はっきり「駄目です」と言ってもらいたいところだったが、話し合いの結果「じゃあ、しばらくやってみましょう」みたいな雰囲気になった。

 家に帰って夫に話すと、

「しょうがない、腹をくくるしかない」

 ということになった。


 ここからが大変だった。

 ゲスな話で恐縮だが、とにかくお金がかかった。

 クラリネットのレッスン費プラス交通費で、1回ごとに一万円以上かかる。

 これが2週間に1回だ。

 それに、馬鹿にならないのがリードだった。

 1箱10個入りのリードは2、3千円くらいなのだが、息子曰く、10個の中に自分に合うものと合わないものがあるという。

 1箱買って開けたら、合うリードは1つか2つしか無く、あとは捨てることになる。

 ひどいときは、今年は雨が多いとか少ないとかで、良いリードが1つも入ってなかったなんて話も聞いた。

 この先も続ければ、捨てた分のリード代でフランスヘ行けるくらいになるかもしれない。それでリードの会社へ乗り込んで行って、文句を言ってやりたいくらいだ。

 リードを使う管楽器奏者は、皆、これで頭を悩ませているという。

 ただし、この話は息子の受け売りだから、どこまで本当かは分からないが。


 とにもかくにも、この日から息子のレッスン通いは始まった。

 息子は、希望に充ち満ちた顔で、2週間に一度のレッスンを楽しみにしていた。

 先生から、怒られても、叱られても、全然めげなかった。

 レッスンから帰ると、その日に教わったことを楽しそうにしゃべった。

 部屋で、先生に言われたことを何度も何度も復習した。

「東京の一流の先生のところヘレッスンに通わせてます」

 それは、片田舎に住む、安い少年と安い夫婦にとって、とてつもなく誇り高いことだった。

 ちょうどこの頃、夫は管理職になって残業手当が無くなり、家計はたいへん厳しくなったが、なんとか息子のレッスンは続けさせた。

 このときは、息子がというよりも、貧しい一家がなんとかして一花咲かせようと、意地で続けているという感じになっていた。


 息子の高校の吹奏楽部は、 1年目も2年目も東関東大会まで進んだ。

 B組は全国大会というものがなく、東日本大会が最終なのだが、そこには進めなかった。


 部活も最後となる高校2年の冬のソロコンでは、息子は複雑な悔しさを味わうことになった。

 この大会、なぜか息子はエントリーせず、親友の男の子のピアノ伴奏者として出場した。

 そこで、親友はグランプリを取り、県大会出場を果たした。

 息子にとって、自分の伴奏で親友がグランプリを取ったことは嬉しい。

 しかし、その裏には「自分が出ていれば……」という気持ちがあったはずだ。

 じゃあ、なぜ、出場しなかったのか?

「もしダメだったら……」という逃げの気持ちがあったに違いない。

 嬉しくて、羨ましくて、悔しくて、情けない。

 しかし、この出来事は息子にとってたいへん良い薬になったと思う。

 親友の男の子は、よくぞグランプリを取ってくれた。

 ダメだったら、息子はこのまま卑怯な奴のままだったかもしれない。

 逃げるとろくなことにはならないということが、このとき身に染みて分かったのではないかと思う。

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