第2話『観客席』
第二話『観客席』
パトカーのサイレンは、鳴らされていなかった。
閑静な住宅街に、黒塗りのセダンが滑り込むように停車する。山田刑事は助手席から飛び出すと、表札で「高橋」の名を確認し、インターホンを強く押した。宇内からの無線が、耳の奥で不吉に反響している。
『父親が『それ』を見てしまう前に。手遅れになる前に』
数秒の沈黙の後、応答があった。
『……はい』
スピーカーから聞こえてきたのは、ひどく憔悴し、か細くなった男の声だった。
「警視庁の山田です! お嬢さんのことで、至急お話が!」
山田は、身分を告げるのももどかしく叫んだ。オートロックが解除される音。彼はアパートの階段を二段飛ばしで駆け上がった。
ドアを開けて待っていたのは、高橋浩一だった。顔色は土気色で、焦点の合わない目が、虚ろに宙を彷徨っている。その様子だけで、山田は悟った。
――間に合わなかった。
リビングのテーブルの上。そこに、宇内が言っていた通りの「本」が、開かれたまま置かれていた。
山田の視線が、それに釘付けになる。ページに印刷された、おぞましい写真。
「……ご主人」
山田の声が、震えた。
「これは、いつ……」
「一時間、ほど前に……」
浩一は、まるで夢の中にいるかのように答えた。彼の隣では、妻の美奈子がソファに崩れ落ち、嗚咽を漏らすことさえできずに、ただ小さく体を震わせていた。
リビングは、地獄の縮図だった。
山田は、本に直接触れないよう、ハンカチを取り出して慎重に閉じた。表紙には、警察に届いたものと同じ『序曲』の文字。
「……奥さん、ご主人。すぐに署までご同行を。我々が、必ず犯人を……」
言いかけた山田の言葉を、浩一が遮った。
「いやだ」
その声は、小さく、しかし、奇妙なほど強い意志を宿していた。
「え……?」
「警察には、行かない。これは……これは、俺たち家族の問題だ」
浩一は、テーブルの上の本を、じっと見つめていた。その瞳の奥に、山田は一瞬、理解できない光を見た。それは、悲しみや怒りだけではない。もっと別の、暗く、粘つくような感情の澱み。
「ご主人、何を言ってるんですか! これは誘拐事件なんですよ!」
「犯人は、そうは言っていない」
浩一は、初めて山田の顔をまっすぐに見た。
「犯人は、俺たちを『観客』だと言った。だったら、俺は観客席に座る。この物語の結末を、この目で見届ける」
常軌を逸した言葉だった。山田は、目の前の男が、すでに正気ではないことを理解した。宇内の危惧が、最悪の形で現実になっている。
犯人は、たった一冊の本で、この父親の心を、完全に掌握してしまったのだ。
その時、浩一のスマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。
ディスプレイに表示された「非通知」の文字。
浩一は、山田がいることも構わず、ゆっくりとそれに手を伸ばした。まるで、待ち望んでいた合図を受け取るかのように。
「高橋さん、待て! それは罠だ!」
山田が制止する。だが、浩一は聞こえていないようだった。彼はメッセージを開き、その画面を、貪るように見つめた。
そして。
浩一の口元に、微かな、本当にごく微かな笑みが浮かんだ。
山田は、その表情を見て、全身の血が凍るのを感じた。それは、被害者の父親が浮かべるべき表情では、断じてなかった。
同時刻・警視庁捜査本部
宇内は、受話器を強く握りしめていた。電話の向こうで、山田刑事が焦燥に満ちた声で報告を続けている。
『……ダメです。高橋(夫)は、完全にどうかしている。我々の言うことを聞き入れず、まるで犯人を庇うようなことまで……』
「父親は、もう『被害者』ではないということです」
宇内は、静かに言った。
『どういうことです?』
「犯人の罠に、堕ちたんです。彼はもう、我々とは別のルールで動く、別のゲームのプレイヤーになってしまった」
宇内は電話を切ると、ホワイトボードの前に立った。
『序曲』と書かれた文字の横に、彼女はマジックペンでこう書き加えた。
『共犯者:高橋浩一』
捜査員たちが、息を飲む。
「これより、高橋浩一を、本事件における重要参考人と位置づける」
宇内の、氷のような声が会議室に響いた。
「我々が追うべきは、二人になった。娘を誘拐した主犯と、その犯人が作り出した、もう一人の怪物……その父親を、だ」
高橋家のリビング。
山田刑事が説得を続ける傍らで、浩一は、まだスマートフォンの画面を見つめていた。
そこに表示されていたのは、たった一行のメッセージ。
『最初の課題だ。警察を、追い返せ』
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