『観客席の獣』
志乃原七海
第1話『挑戦状』
第一話『挑戦状』
警視庁捜査一課のフロアは、月曜の朝の気怠い喧騒に満ちていた。コーヒーの香りと、週末に処理しきれなかった書類の山。誰もが、これから始まる一週間を思って憂鬱だった。
その空気を切り裂いたのは、庶務課の若い女性職員の、上擦った声だった。
「あの……捜査一課の、宇内透子警部補宛に、お荷物が……」
刑事たちが、一斉に顔を上げる。その視線の先で、宇内透子は眉一つ動かさずに立ち上がった。
「私に? 差出人は?」
「それが……記載がなくて。ただ、品名に『捜査資料在中』とだけ……」
宇内が受け取ったのは、A4サイズほどの、何の変哲もない段ボール箱だった。だが、宛名に特定の個人名、しかも自分の名前が書かれていることに、彼女は微かな違和感を覚えた。
自席に戻り、周囲の刑事たちが遠巻きに見つめる中、カッターナイフで慎重にテープを切り裂く。
中から現れたのは、一冊の本だった。
光沢のある厚紙の表紙。丁寧に製本されている。
その表紙には、黒いゴシック体で、ただ一言だけ、こう印字されていた。
『序曲』
「……なんだ、これ」
隣の席の山田刑事が、訝しげに覗き込む。
宇内は、その不吉なタイトルに背筋を走る冷たいものを感じながら、指紋をつけないよう、手袋をはめて最初のページをめくった。
その瞬間、フロアの空気が凍りついた。
ページ一面に印刷されていたのは、写真だった。
薄暗いコンクリートの床に、手足を縛られ、口を塞がれた少女がうずくまっている。歳は、高校生くらいだろうか。その瞳は恐怖に見開かれ、涙の跡が黒く筋になっていた。
そして、彼女は、何も身に着けていなかった。
「なっ……!」
周囲から、息を飲む音が聞こえる。
宇内は、冷静さを保ちながら、ページをめくり続けた。
壁にもたれかかる少女。床に横たわる少女。絶望に顔を歪めるアップ。
一枚、また一枚と、少女の尊厳が剥ぎ取られていく様が、冷酷なまでに美しい構図で、淡々と切り取られていた。これは、単なるわいせつ目的の写真ではない。強いメッセージ性と、計算され尽くした悪意が込められている。
写真集の最後のページ。
そこに印刷されていたのは、写真ではなく、一枚の学生証の画像だった。
『高橋 咲希』
「身元不明の家出人リストを当たれ! 急げ!」
課長の怒声が飛ぶ。刑事たちが、一斉に電話やPCに向かった。
だが、宇内は、学生証の下に印刷された、たった一行の文章に釘付けになっていた。
『観客は、彼女の両親だ。』
「……山田さん」
宇内は、顔を上げずに言った。その声は、氷のように冷たい。
「高橋咲希の両親の自宅へ、緊急で向かってください。おそらく、彼らの元にも、同じものが届いている」
「な、何が狙いだ、こいつは……」
「宣戦布告よ」
宇内は、写真集を閉じた。
「これは、我々警察に対する、挑戦状。そして、これから始まる『物語』の、予告編。犯人は、我々を観客席の隅に座らせ、これから舞台の上で繰り広げられる地獄を、ただ指をくわえて見ていろ、と言っているのよ」
宇内の脳裏で、犯人のプロファイリングが、急速に組み立てられていく。
これは、劇場型犯罪だ。
観客を強く意識し、物語性を重視する、極めて知能の高い犯罪者。
金銭や性欲が第一目的ではない。彼の目的は、人の心を弄び、支配し、破壊する、そのプロセスそのものを楽しむこと。
そして、そのメインターゲットは―――被害者の、父親。
「急いでください、山田さん」
宇内は、強い口調で繰り返した。
「父親が『それ』を見てしまう前に。手遅れになる前に」
だが、その願いは、おそらく届かないだろう。
犯人は、常に一手先を読んでいる。
今頃、高橋家のリビングでは、父親が禁断の果実を手に取り、その魂が、永遠に後戻りできない場所へと、足を踏み入れてしまっているに違いなかった。
おぞましい事件の幕は、警視庁のど真ん中に叩きつけられた挑戦状によって、静かに上がった。
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