1・異様
手が、震える。
多汗症で、日常に対するホメオスタシスの強かった私は、非日常に異様な興奮と恐怖を覚えた。皺と傷と汚れの増えた自分の両手を見つめ、思わず溜息を吐く。はぁ、本当に……。
「あーあ、綺麗なおててが、汚れちゃって」
魔の手が差した。私の震える手が、きゅっと握り締められる。手汗がじわっと、互いの手の中を湿らす。この不快感は、私自身のためでなく、相手への気遣い。それでも、相手は握り締めて離そうとしない。力加減を知らないのか、私への歪んだ愛情の表れか。
「安心してね? これがぜーんぶ終わったら、私が小指の先まで綺麗にしてあげるから。あっ、それじゃダメね。琥珀色に煌めく眸も、艶を失わない銀色の髪も、その、その……っ、煽情的な肌も……ぉっ」
「わかった! わかったからっ!」
怖い。ずっと、慣れないこの恐怖。「神」とはベクトルの異なる怖さ。その感情が抑えられず、眉を顰めながら握り主の顔を覗く。
「はあぁぁっ。目を合わせてくれるなんて! 何年ぶりかな! やっっっと振り向いてくれた!」
「い、いや、振り向いたわけじゃ……。それに会ってまだ半年も……」
色の抜けた桃色の髪。ドールみたいに端正な顔。新雪の如き白皙の肌。スパイスは歪んだ愛の垣間見える表情。大きくつぶらな蒼い
ただ、メイクもアクセサリーももう意味の成さない今この時で、それでも彼女は美しい。その美しさもまた、少しベクトルが違うのだけれど。
女優顔負けの
イエスの誕生から二千年と少し。
何がどうなって起きたのか、今となっては分かったものではないけれど、「神」が現れたということは確かだった。それは
その終焉の元凶——神は、一概には形容し難い実体を持ち、無数の目、幾数の円環、翼、それから色は全体が大理石のように艶のない白。妙な霧——のようなもの——に包まれて、大きさはヨーロッパ全域を占める程度、また日数を追うごとに肥大化している。チェリャビンスク-65——オジョルスクというロシアの都市周辺に出現。あまりに非科学的で解明しようのないそれを、最初はマスコミが騒ぎ立て、そのあと事態の異常さを世界が悟り、祈る者もいれば、絶望する者も、抗う者も、縋る者も出た。
そして、それに呼応するように神が起こした行為は殺しだった。人間が人間を殺すことが赦されないというのに、神々は易々と人間を殺した。それには気質も、来歴も、信条も関係なかった。万人が満遍なく、殺されていった。
方法も残虐性を孕み、人間の精神性に寄生、「生への疑義」を自殺行為の直接的な原動力にし、公衆の面前で生命力を吸い取るような惨憺たる最期——自死を図らせる。物理的な殺傷能力も無数に有し、現実の神は非常に邪悪だった。
「神の殺しは善行に伴う犠牲」
その大義名分は、現実を目前に
それから一週間足らずで各国の軍部が協力し、神に対しての正式な宣戦布告が為されたが、そんなものは非力で、まったく
桃色の少々異常な彼女——リリトゥも、悲劇の犠牲者だった。
ここ数日はあまりに悲惨だったもので、もう記憶に薄いけれど……。初めてリリトゥに会った時、彼女はパニック状態にあったものの、至って冷静で寡黙だった。まるで神の影響を何一つ喰らっていないかのように、落ち着いて沈着に小銃を握る、果敢な女だったのだ。けれど、彼女とて神の計略に抗える人間ではなく、次第に理性を失っては、超自我が自我を超越したような気質が露わになってしまった。つまるところ、私への異常な愛情もそのうちの一つだ。現に彼女が私の手を握る力も、上手く制御できていない——軽く骨が、折れそう。
「——エーヴァ、リリトゥも。準備しろ」
野太い声が私たちを呼ぶ。
少しだけ力んで、強引に手を引く。「あっ」とリリトゥが残念そうに虚空を掴むけど、呼ばれたんだもの、行かなくちゃ。
「リ、リリトゥも、準備してね」
自分の手を揉みながら、深緑の硬い長椅子を立つ。尻目で見たリリトゥはひどく落ち込んでいた。
脱線したメトロの車両。ガタガタに線路をはみ出して、斜めの床を歩くのはしんどいし、ときたま崩れそうに軋むから
七号車。唯一脱線していない車両で、呼び主が待っていた。
「準備できたか? リリトゥはどこ行った」
「もう少しで来ると思います」
ロシア系の、無干渉で、無機質な人。「イメージカラーはグレー」、みたいな。私やリリトゥ、その他の人を助けてくれた人だけれど、この人もまた、独自の怖さを纏っている。口数は少なく、神の影響はほぼ見受けられないし、なんなら持ち前のフィジカルで跳ねのけてしまいそうな、怖い人だ。
軍人だったみたいで、装備とか武器にやけに詳しく、その知識を私たちに押しつけては、生きる術を共有してきた。
「装備の使い方は一通り教えたな。今日は
禿山に佇む岩みたいに
「慌てることはない。ただ、失敗をしなけりゃそれでいい。分かったな」
「わ、分かりました……」
「リリトゥはまだか、チッ」
舌打ち。眉間に深い皺を寄せて、彼は先頭車両の方向へ出向く。
「あ、あの……っ」
私の声が、彼の行動を
「なんだ」
「あの……、アドナイさんは、何を目的に、まだ戦うんですか? もう、勝ち目はなさそうなのに」
「今、俺たちは自由だろ?」
疑問が募る。その言葉が喉に突っかかり、素直に呑み込めなかった。どれだけ咀嚼して反芻しても、彼の答えは、私の答えにならなかった。それから彼は、リリトゥの名を怒鳴りながら車両の奥へと姿を晦ました。足音が地団駄を踏むみたいに一段と大きい。
私はただ、怖かった。怖くって、手汗がまた、じわりと。
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