第12話 返却されない鍵

静寂は戻ったはずだった。旧保健室の空気は薄く、アルコールの残り香だけが壁紙に縫いとめられている。出席簿は閉じているのに、背表紙から微かな熱が指先に移る。さっき刻まれたばかりの名――ミナト。

 彼女は窓の“空白”を踏み越えて現れ、そこに立った。襟元が海鳴りのようにわずかに揺れ、目はまっすぐユウトを射抜く。

「呼んだのは、あなた」

 頷くと、胸骨の裏で拍がひとつ跳ねた。鍵束の拍ではなく、名前の拍だ。ポケットの金属は04の刻印を主張し、布越しでも指を押し返してくる。

「返してないんだね」

 ミナトの声は、断章の規則にぴたりと嵌まっていた。返却がない限り、04は終わらない。右耳で薄い耳鳴りが立ち、“証明の線”が鼓膜の内側に引かれる。


 出席簿が自動で一枚めくれ、名簿の空欄が等間隔の棺に見えた。黒く塗り潰された欄の隣に、細い筆致の「ミナト」がある。インクはまだ乾き切っていない。

 窓外の空白で、黒い縁が波打った。“名を持たない影”が寄せてくる。顔はないが、視線だけがあった。――次の名を寄越せ。

 ユウトは鍵束を握る。金属の歯が掌に食い込み、拍は心臓とずれていく。

「返すって、どこへ?」

「名を受け取ったところ。最初に呼ばれなかった場所」

 右耳の奥が熱を帯びる。声ではない圧が耳の管を押し広げ、空気の形だけが流れ込んだ。


 器具棚が軋み、隙間から白いカードが床を引きずりながら出てきた。拾うと表に「返却用」、隅に小さく04。裏には薄い罫線と、見慣れた項目――発声/反応/沈黙時間。

「返却って、書くの?」

「違う。言うの」

 ミナトがカードに指を置く。空気がザリと鳴る。空白に波紋が広がり、影の群れが一斉に首を傾げた。名を、返せ。


 ユウトは喉を湿らせる。呼べば生まれ、呼ばなければ消える。呼ばれなかったものは、どこへ行く? 第十話の鉛筆の行が浮かぶ。――呼ばれなかった。だからここにいる。

 04は、あの夜の順番だった。黒い箱、紙片、消えた椅子。床の冷えが重なる。04を終わらせることは、あの夜を現実から剥がすことかもしれない。けれど、それが誰かの足場だったなら。

「……返す」

 言うと、右耳の耳鳴りがきつくなる。音ではない。約束の証明だ。


 カードがふわりと浮き、出席簿の上に重なった。擦れる音はなく、“沈黙時間”が0から数え始める。窓の空白が白濁していく。

「ユウト」

 ミナトの呼び声が、胸骨の裏に結び目を作った。

「あなたの“04”は鍵じゃない。名の貸出券。返すのは金属じゃなく、あなたの中の“呼び声”」

 ユウトは頷き、04の歯を掌に据える。拍は弱いが正確だ。どう返す?

 空白で影が一体だけ前へ出た。ほかより濃い縁。輪郭に髪の揺らぎが生まれ、すぐほどける。未満の存在。名を、待っている。


「呼ばれなかった名を、返す」

 ユウトは出席簿の最初のページを開く。揮発しかけたインク、黒い塗り潰し、涙の二点。癖のない鉛筆の文。――呼ばれなかった。だからここにいる。

 胸の奥で柔らかな音が揺れる。ベル。雨の縁。そこに、声になる前の音が連なっている。

 ユウトは呼吸を整え、声帯の上に空白を作った。声は出さない。名前の形だけを、口の中で作る。届かない“形”が耳の内側を押し、空気の密度をわずかに変える。

 ミナトが頷く。影の群れが一歩退き、前の影だけが形を保つ。輪郭の中で、目の位置が温かく灯る。


「返却を記録します」

 天井のどこかが告げる。出席簿の“沈黙時間”が止まり、発声欄の隣に透明な波形が刻まれた。波形は名ではない。名に至る前の構造。04の刻印が掌の中で薄れていく。

 金属は軽くなった。04の歯が、ただの歯に戻る。鍵束の拍は心臓に近づき、同じテンポで打つ。

 窓の空白で、影が首を上げる。髪の長さ、肩の線、唇。目はまだないが、視線だけがこちらへ向いている。


「名前は?」

 ミナトが問う。影は答えない。名は与えられるのでなく、返却の流れで“戻る”。ユウトは理解した。

「いまは、呼ばない」

 ユウトは出席簿を閉じる。名を急げば、また何かが奪われる。返すことと与えることは似ていて、違う。右耳の耳鳴りが静まり、左耳の奥で小さな雨音が生まれた。

 群れの影は後退し、前の影だけが床に残る。存在の厚みはまだ薄い。だが、空白は薄紙一枚分、確かに退いた。


 そのとき、棚の奥で硬いものが落ちた。音は聴こえないはずなのに、全員がそちらを向く。床に転がる薄い金属板。表に「05」、裏に小さく∞。

 04の返却が、次の番号を呼び出した。終わりは切り替わりで、切り替わりは連鎖だ。

 ユウトは板を拾い、掌で裏返す。∞は黒ではなく、透明な光で刻まれている。角度で消えたり現れたりする、確定前の印。

「続くんだね」

 ミナトが呟く。ユウトは頷いた。続く。けれど、04は終われた。終われたという記録は、耳鳴りの底に細い線として残る。証明は刃ではなく、合図になりつつある。


 窓の空白はしばし静まり、校庭の影が薄く差した。出席簿の背表紙は冷え、余熱は消える。ユウトは鍵束を握り直し、歯がただの金属へ戻っているのを確かめた。

 黒い塗り潰しはまだ黒い。だが、ひとつだけ縁がわずかに薄い。乾かない透明な波形が寄り添っている。


 返却は終わった。だから、次が始まる。

 ユウトは「05」をポケットへ入れ、ミナトと並んで扉へ向かった。扉の向こうは、いつもより長い廊下だろう。けれど、歩ける。拍は、もうずれていない。

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闇の断章 相田 翔 @sosakukenkyusyo

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