第11話 その名はミナト
静寂は戻ったはずだった。
だがユウトの胸の奥では、いまだに“誰かの名”が微かに震えていた。
指先が冷えていく。
机の上の出席簿は閉じているのに、その背表紙からはまだ熱のような残滓が漂っていた。まるで、名前そのものが発火していた余熱のように。
──呼ばれなかった。だからここにいる。
先ほど読んだ鉛筆の文字が、心臓の裏で反響する。
ユウトは深く息を吸い、保健室の奥へ足を運んだ。
音はない。だが一歩ごとに、誰かの“沈黙”を踏んでいる気がした。
棚の隙間から、薄い紙片が一枚だけ床に滑り落ちていた。
拾い上げると、それは保健記録の切れ端だった。
> 「名は、存在を定める。
> だが、定められなかった名は、どこへ行く?」
その文字は、先ほどの筆跡とは違っていた。
もっと荒く、震えて、急いで書かれたもの。
紙を裏返すと、数字があった。
「05」──ただし、すでに誰かの手で上書きされていて、0と5の線が二重に揺らいでいる。
輪郭が曖昧に、∞の形に崩れかける。
ユウトの頭に、妙な直感が走った。
「04」のカードを机に残したまま、この部屋には次の“名の揺らぎ”が用意されている。
それは番号の連鎖ではなく、存在の連鎖だった。
──誰が次に塗り潰されるのか。
背後で、出席簿が再び勝手にめくられた。
風はない。音もない。だが確かにページが動いた。
次のページには、ユウトの知らない級友の名前が並んでいた。
けれど一つ、真新しい黒いインクで塗り潰されている欄があった。
乾ききっていない。
つまり“今”この瞬間、誰かが消されたのだ。
喉が乾く。
名を呼ばれる前に、名を奪われていく感覚。
ユウトは思わず口を開いた。
声にならない音が、肺から押し出される。
しかし舌が形作ったのは、彼自身の名ではなかった。
──「ミナト」
なぜか、自分の意志とは無関係に、そう発声していた。
その瞬間、窓の外の“空白”が、再び震えた。
黒い縁の影が形を変え、輪郭に“髪”のような揺らぎを生み出していく。
名を持たない影が、名を与えられようとしていた。
「……ミナト」
自分でも驚くほどはっきりと、その名は空気に刻まれていた。
空白の窓の向こう。
黒い縁の影が、ゆっくりと人の形を帯びていく。
輪郭が揺れ、目鼻立ちが曖昧に浮かび上がり──最後に、髪の長さが決定されるように揺れて収束した。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
白いシャツに灰色のスカート。
学生であるはずなのに、どこの制服とも違う。
だが、その姿は確かに“人”だった。
ユウトの鼓動が一瞬止まり、次の瞬間に荒々しく跳ねた。
「……呼んだの?」
少女の口が動く。声は微かだが、確かに届いた。
彼女は窓の空白を踏み越えるようにして、旧保健室へと足を踏み入れる。
音はない。
けれど、彼女の足取りに合わせて空気が少しずつ戻ってくる。
“存在を定める名”を持った者が現れたとき、沈黙がほころぶのだとユウトは直感した。
「君は……」
喉が渇ききっていた。
問いかけの続きを口にできず、ただ名を繰り返した。
「ミナト……」
少女はうなずいた。
その動作は、まるで自分の名を確かめるように慎重だった。
「ここに来たのは、あなたが呼んだから」
彼女の声は、どこか遠い海鳴りのような響きを持っていた。
名が与えられ、呼ばれたことで、彼女は存在を持った。
だが同時に、ユウトは背筋を冷たいものが走るのを感じた。
──もし名を呼ぶだけで存在が生まれるのなら、これまでに塗り潰されていった名たちはどこへ行ったのか?
出席簿のページが、また勝手に揺れた。
黒く塗り潰された欄の隣に、細い文字が浮かび上がる。
「ミナト」──それはユウトが口にしたばかりの名だった。
少女はその文字を見つめ、かすかに微笑んだ。
「今度は消されない。だって、ここにいるから」
その言葉に、保健室の沈黙がわずかに解けた。
窓の外の“空白”は薄れ、ほんの一瞬だけ、校庭の影のようなものが覗いた。
ユウトは、名を持たない影ではなく、“名を得た存在”が自分の前に立っていることを実感した。
だが同時に、それが救いなのか、さらなる試練の始まりなのか──答えはまだ見えなかった。
ミナトがそこに立った瞬間、旧保健室の空気がわずかに震えた。
沈黙がほころんだはずなのに──次の鼓動で、逆に“何か”が入り込んでくる感触があった。
窓の外の空白は薄れたはずだった。
だが、その奥から、黒い縁がふたたび波のように寄せてくる。
“名を持たない影”が、今度は複数、群れのように形を変えていた。
「……また来る」
ミナトは静かに言った。表情は崩さず、ただ目だけが強張っていた。
影たちは名前を持たない。
けれど、ユウトの胸骨の裏で、次々と音にならない“名の構造”が叩かれる。
呼吸が合わず、心臓がリズムを失っていく。
出席簿のページが一斉にめくれた。
黒インクの塗り潰しが拡散し、まるでページ全体が滲む墨になっていく。
その墨から浮かび上がるのは──「次の名を寄越せ」という、声なき要求。
ユウトは叫ぼうとした。
けれど唇の間から出たのは、自分の名ではなかった。
「……だれか」
その言葉に応じるように、空白の奥からまたひとつ、人影が滲み出す。
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