第10話 名を持たぬ声
足音はしなかった。
教室から保健室へと続く廊下は、木ではなく、乾いた布のような質感に変わっていた。靴底が触れるたび、繊維の奥に音が吸い込まれる。反響がない。空気が、“名前のない音”を受けつけないように思えた。
扉を開けると、そこは使われなくなった旧保健室だった。
ベッドは折りたたまれ、棚には古い器具と日誌が積まれている。窓の外は見えない。カーテンは開いているのに、向こう側には何も存在していない空白が漂っていた。
机の上に、出席簿が置かれていた。表紙は剥がれかけ、角は湿気を含んで波打っている。めくると、日付と名前が並んでいた。
けれど、いくつかの名前が、黒いインクで塗り潰されている。
ユウトは、目でそれを追った。塗り潰された部分に、かすかにペンの凹凸が残っている。けれど、どれも“読めそうで読めない”。
名前が、誰かの手で“消された”のではない。最初から、“存在しなかった”ような感触があった。
保健記録の束に触れた瞬間、空気にアルコールの匂いが混じった。
薄く、揮発しかけているのに、舌の奥でまだ刺さるほど濃い。
だがそれは、清潔というより、何かを急いで“消した”後の匂いだった。
記録は、古びた方眼紙に手書きされていた。
日付、時刻、体温、症状──その隣に、「発声」「反応」「沈黙時間」など、見慣れない項目が並んでいる。
名前の欄は、多くが空白だった。
それなのに、発声の欄には文字がある。
「咳 3回」「名を呼ばず 反応あり」「言葉不成立」──
誰かが、そこに来て、声を出そうとした痕跡。
だが、「誰が来たのか」は一切書かれていない。
ユウトは一枚一枚、ページをめくっていった。
あるページの角が、わずかに濡れていた。
文字の上に、にじんだ跡がある。涙の痕跡のように、ふたつ。
その下に、鉛筆で書かれた行があった。
> 「呼ばれなかった。だからここにいる」
誰の文字かはわからない。筆跡に癖はなく、慎重に書かれていた。
その紙から、微かにアルコールの匂いがした。
だが、もう消毒のための匂いではなかった。
そこに刻まれたのは、“声の記録”ではなく、“声の不在”だった。
音はなかった。
けれど、空気が微かに膨張し、胸骨の裏をそっと押された。
呼吸が揺れるほどではない。けれど、心臓が一拍、遅れて返ってくる。
鼓膜は沈黙しているのに、全身の内側が、名を聞いたときのように動いた。
空間の隅が、ゆっくりと滲み始める。
視界ではなく、体内の重心がずれていく感覚。
誰かが、“ユウト”と、声にならない名を発そうとした痕跡が、部屋のどこかに漂っている気がした。
ユウトは鍵束を握った。
けれど、それはもう反応しなかった。
いつもなら打つはずの拍が、金属の中で、ただ沈黙している。
代わりに、自分の名がどこかで脈打っている気がする。
名が、外から響いてくる。
文字ではなく、声でもなく。けれど、名という構造だけが、“存在の外側”から押し寄せてくる。
保健室の机が揺れた。
わずかに浮き、すぐ着地する。音はない。けれど、空気に波が走った。
棚の中の器具が、少しだけ傾く。
次の瞬間、窓の外の“空白”が、わずかに動いた。
何かがそこに立っていた。誰でもない何か。
名を持たない者が、名を持つこちらへ、歩いてこようとしていた。
その瞬間、記録の紙がわずかに浮いた。
風はないのに、空気が沈み、紙だけが逆らうように揺れた。
手を伸ばそうとしたユウトの指は、ページに触れることができなかった。紙はそこにあるのに、**“名を持つ手”でなければ触れられない”**ような拒絶があった。
紙面には、「ユウト」の名があった。
けれど、字の輪郭が曖昧ににじみ、別の字形と交差するように変形していく。
04という数字の隣に浮かび上がる“何かの記号”──それは名前ではなく、“名の構造”だけを模した異物だった。
保健室の奥にある棚がきしむ。
棚の隙間、床と壁の継ぎ目、閉じられた器具の蓋、そのどこかから、「名前を持たぬ声」が滲み出してくる。
声というより、名の構造だけを真似た“振動”だった。
ユウトはその圧を胸で受け止めた。心臓が一拍、また一拍とずれ、名前と鼓動が同期しなくなっていく。
窓の外には、もう“空白”しかなかった。
だがその空白の中心に、わずかに黒い縁が見えた。
人の影に似ている。けれど、顔も、目も、輪郭すらない。
ただ、その“名のない何か”は、確かにこちらを見ていた。
出席簿がまためくられた。ユウトの手は動いていない。
けれど、ページが勝手に開かれ、インクの記録が書き換わっていく。
「ユウト」の字が、じわじわと別の名前に重なり、塗り潰されていく。
“彼”の名が、彼のものではなくなろうとしていた。
頭の中で、名が剥がれていく感覚があった。
自分の名前を言おうとしても、口の中が空転する。
唇が動いても、舌が震えても、出てくる音はただの呼気。
名が失われるとき、人間は、言葉の順序を失うのだと気づいた。
そのとき、誰かの声が響いた。
「ユウト」
けれどそれは、彼を呼んだのではない。
“別の誰か”が、その名前を代わりに名乗ろうとした響きだった。
机の上に、ぽつんとカードが置かれていた。
「04」──けれど、その数字の輪郭は∞に揺れ、消えかけ、また04に戻る。
その揺らぎのリズムが、今のユウトの心臓の拍動だった。
ふと、紙面の一番下に、細い文字が浮かび上がる。
それは、彼が呼ばれたことのない、見覚えのない名前だった。
なのに、そこにあったのは──彼の筆跡。
空気が静まった。
保健室の棚は元の位置に戻り、器具の蓋も閉まる。
紙はページを閉じ、再び沈黙を守った。
だがその余白に、確かに誰かの名が一瞬だけ残っていた。
そしてその名前は、今や“彼”の中にも、ほんのわずかに残っている気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます