第9話 その声は、記録に似ていた。

目を開けると、教室だった。

 戻ってきたのか。それとも、ここにいたままだったのか。

 黒板には、もう何の数字も残っていない。ただ、白い粉の余熱が板面に溶け込み、時間の代わりに呼吸をしているようだった。


 掌の中に、冷たく脈打つものがあった。

 視線を落とす前に、それが何かわかった。金属の歯。拍のリズム。返したはずの鍵束が、また戻っていた。いや、返したという記憶のほうが幻だったのかもしれない。


 レコーダーは机の上にあった。そこに置いた覚えはない。だが、そこにあることには違和感がなかった。

 手を伸ばす前に、レコーダーは自ら動き出す。


 「ざーーーーー……」


 雨の音でもなく、風の音でもない。

 記録が始まる前の、空白の音だった。


ざざ……ざーーーー。


 ノイズは一定のリズムで揺れていた。まるで、それ自体が何かを思い出そうとしているように。音は少しずつ薄まり、輪郭を整えていく。最初に現れたのは、呼吸の音だった。息を吸う音ではない。誰かが、こちらの息を感じ取って、息を重ねてくる音。


 「……ユウト」


 空気が一瞬、密度を変えた。

 名前を呼ばれただけ。それだけなのに、鼓膜の内側に触れる感触があった。耳の奥を通って、首の後ろ、背骨の中へと沈んでくる。声の主は知らないはずなのに、“ユウト”という音の形だけが、正しく彼に触れてくる。


 「カズユキ……」


 違う名前。けれど、どこかで聞いたことがある。いや、聞いたことがあると“思わされた”気がした。誰かの記憶をなぞることで、記憶が書き換わる感覚。録音された声ではない。再生された記憶でもない。記憶が、“誰かによって呼ばれた”のだ。


 液晶画面に、映像が滲んだ。逆再生されるように、誰かの手が何かを取り戻す。空気が、戻ってくる。


映像が滲んで、音が消えた。

 黒い画面の奥から、逆向きの映像がゆっくりと浮かび上がる。時間の粒が反転し、空気が巻き戻されていく。


 そこに映っていたのは、教室だった。

 けれど、今いる教室とは少しずつ違う。机の並びが微妙に狭く、黒板の縁に白い指跡が残っている。天井の照明は一つ欠け、光が四角く欠落していた。


 映像の中で、誰かが立ち上がる。

 後ろ姿だけ。ネームプレートの角度、制服の皺、左手首に巻かれた黒いG-SHOCK。

 それは自分だった。

 ただし、記憶にはない仕草で立ち上がり、見たことのないノートを机に置いた。

 見えているのに、思い出せない──それは、“自分”であって“他人”だった。


 その時計の液晶には、「06:06」と表示されていた。

 今、教室の壁の時計も、まったく同じ時刻を示していた。


 視線が、映像の中のユウトの後頭部に吸い寄せられていく。

 その“視線”に、自分の記憶ではない重さがある。


 誰かが彼を見ている。

 そして、その“誰かの目”から見た記録が、いま、レコーダーの液晶に流れている。


 指先が冷たくなる。

 目に見えるものよりも先に、見えない何かが、内側から“彼の存在”をなぞっている。

 それはまるで、名前を呼ばれた声が、今度は彼の姿を“呼び起こした”ようだった。


気づくと、レコーダーのノイズが止まっていた。

 代わりに、胸の奥で、何かがずっとざわついている。音ではない。拍でもない。**“予感のような空白”**が、脈の合間を満たしている。


 机の引き出しに、違和感があった。

 引いてみると、そこに一枚のSDカードが置かれていた。番号ではなく、**「声」**とだけ、黒インクで書かれている。


 触れた瞬間、指先が少し熱を持った。

 プラスチックの表面は冷たいはずなのに、そこだけ微かに熱い。まるで、自分の体温ではない何かが、カードを通して逆流してきたようだった。


 SDカードを耳に近づけた。再生していないのに、ノイズ混じりの囁きが流れてきた。


 「ユウト……」


 今度の声は、先ほどと違っていた。少女の声。だが、もっと幼く、名前の発音が不安定だ。

 “誰かが呼んでいる”というより、“言葉になる前の音が、名に変わる瞬間”のようだった。


 「……き……ゆ……カズユキ……?」


 声は、定まらなかった。けれど、その不確かさが、逆に胸の奥へ入り込んできた。

 呼ばれているのに、誰が呼んでいるのかがわからない。なのに、“呼ばれていること”だけは確かだった。


 カードの表面が、じりじりと熱を帯びてくる。

 掌の皮膚が乾いていく。名前を呼ばれるたび、身体の水分が少しずつ奪われていくような、内部からの乾き。


 そしてその乾きの中に、“ユウト”という音が根を張っていく。

 思い出すのではなく、呼ばれることで“植え付けられる記憶”。

 そう、これは“自分の記憶”ではない。“誰かの中にあった”ユウトの記憶だ。


教室の空気が、少しずつ変わっていくのがわかった。

 窓の位置が、さっきと違う。机の脚の傷の角度も違う。

 視覚で覚えていた空間が、声の響きによって書き換わっていく。


 「ユウト」


 また呼ばれた。

 呼ばれるたびに、床の軋みが変わる。椅子の重さが変わる。

 名前が空間を構築していく。この空間は、“誰かに呼ばれた”ユウトの記憶でできている。


 自分が何をしていたのか、何歳なのか、思い出せない。

 でも、“ユウト”という音に反応して、心臓が動いている。

 「私」はもう、「私」でなくなっている気がした。

 “誰かの記憶”の中でだけ、生きている名前。


 ノイズがまた、遠くから戻ってくる。

 レコーダーの液晶が光り、その奥に、かすかに人影が映る。


 「……ねえ、きみ」


 声は、今度は問いかけてきた。

 どこからか、ではない。机の奥から、レコーダーの裏から、そして教室の空気そのものから。


 「ほんとうに、“君”はそこにいるの?」


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