第8話 その名は、影よりも深く

あの雨は、確かに止んでいたはずだった。

 けれど、路地の奥に踏み込んだ瞬間、耳の奥でまたぽつりと、水音が跳ねた。

 濡れていないはずの肩口が、冷たい。見上げても空は乾いているのに、なぜかシャツが湿っている。


 どこまで歩いてきたのだろう。いや、そもそもここはどこなのか。

 雑草の生えたアスファルトの割れ目、壁に貼られた色褪せたビラ、誰かが捨てたぬいぐるみの目――

 すべてが、昨日見たもののようで、まるで覚えがない。


 足元にたまった水たまりに、顔を覗き込んだ。

 映ったのは、自分のシルエットだけ。

 目がない。口もない。輪郭だけの影が、こちらを見上げていた。


黒い塊が床に広がっていた。

墨のように濃く、濁った光を帯びて、まるで何かがそこから溶け出しているようだった。あのICレコーダーのそば。まるで、音の残骸が染み出したかのように。


一歩、また一歩と彼は近づく。踏み出すたびに、床が軋んだ。けれどそれは、単なる軋みではないようにも思えた。どこか遠くから、誰かの呻き声が重なって響くような、空耳。


彼は立ち止まり、しゃがみこむ。

「……これ、は……?」


黒い液体の中央に、何かがあった。

それはまるで、耳の形をしていた。人間の、それも左耳だけを切り取ったような、奇妙に現実的な造形。けれど、そこに血はない。代わりに、耳孔の奥から、細い磁気テープが覗いていた。


そのテープが、僅かに震えていた。

彼が息を呑んだ瞬間——テープが、ぴくりと動き、彼の方へ向かって伸びてきた。


彼女が口を開いたとき、音ではなく、匂いが先に届いた。


湿った鉄。焦げた布。甘く腐った花。


「名前、聞かせて……」


それは問いではなかった。命令でもない。ただ、空間に落ちた声だった。


だが、彼の背骨を一本一本なぞるような、冷たい圧があった。


「……ユウト」


声が震えたのは、恐怖からではない。


自分の名前が、この闇の中でひどく場違いなものに思えたからだ。


ユウト。それは生まれてから何度も呼ばれてきたはずの音の並びでしかないのに、


今ここでは、まるで――。


「ユウト、ね」


女はその名をゆっくりと口にし、まるで舌の上で転がすように味わった。


「いい名前」


その瞬間、彼の脳裏に、過去に出会った誰とも違う、けれど確かに“彼女”だった何かの気配が重なった。


その女は“記録”の中にいた。ビデオの中。フィルムの隙間。オープンリールのテープに焼きついた声。


彼が幼い頃、祖父の書斎にあった古びたオープンデッキ。

回転する茶色い磁気テープの向こうから、聞こえた――


「ユウト、ユウト、ユウト……」


それは偶然ではなかった。


その声は、今ここで目の前にいる“女”の声と、まるで同じだった。


廊下の先、扉がひとりでに開いた。


ギィ…という耳障りな音とともに、冷気のような気配が押し寄せる。誰もいない部屋。けれど、そこには確かに「存在」があった。あの日の影が、薄墨のように広がっている。


部屋の中央に置かれたのは、古びたオープンリールのデッキ。左右のリールのあいだで、茶色い磁気テープがシュルシュルと音を立てて回っていた。何かを録音しているのか、それとも再生しているのか。それすらも曖昧な音。どこか焦点の合わない現実の隙間で、時だけが巻き戻されていくようだった。


彼はゆっくりと近づいた。足音は床に沈み込むように吸われ、呼吸だけが異様に大きく感じられる。


リールの音が途切れる。


次の瞬間、スピーカーから低いノイズが鳴り──

「……た……し……」

聞き取れたのは、途切れた“声”。


男の声だ。けれど、それが誰なのかはわからない。知っているような、知らないような、記憶の裏側をかき回す音。


もう一度、声がした。


「……わたしは……ここにいる……」


空気が凍りついた。言葉は確かに聞こえた。けれど、耳ではなく、心に直接流れ込んできたような錯覚。


「お前は……見つけたのか?」


男の足が止まる。息を呑んだ。


「……名を……呼べ……」


まるで、誰かの帰還を告げるかのような響きだった。


彼は、ただ黙っていた。何も返せず、ただその場に立ち尽くしていた。


彼の名を呼ぶ声が、また聞こえた。

今度ははっきりと、耳の奥に、ねっとりと貼りつくように──


「カズ……ユキ……」


背筋をなぞるような声だった。懐かしさと恐怖が、体の奥で拮抗する。

誰だ?なぜ、俺の名前を──


思い出せない。だが、その声を、俺は知っている。


机の引き出しがひとりでに開いた。中には、小さなアルバム。

ページをめくると、そこには自分と、知らない少女のツーショット。

肩を寄せ合い、満面の笑みを浮かべて──


「……嘘だ」

こんな写真、見たことがない。こんな記憶……存在しないはずだった。


だが、ページをめくるたび、俺はその子の名前を知っていく。

呼ばなくても、口の中に浮かぶ。目の裏に焼きついていく。


──アカネ。


そう、彼女の名はアカネだった。

彼女は、俺の恋人……いや、違う、もっと深い何か。


何かが、脳の奥で断ち切れていたものが繋がる。

悲鳴、泣き声、ざらついたノイズ、血の匂い。


そして、レコーダーのボタンが押される音。

──カチッ。


「録って……お願い……忘れないで……」


俺の声じゃない。少女の声でもない。

それは、記録に残された“誰か”の願いだった。


カチッ──音が止まった。


部屋は再び、静寂に包まれる。

だが、彼の胸には確かな違和感が残っていた。


この記憶が戻ったとき、何かが始まる気がしていた。

いや、もう始まっていたのかもしれない。


レコーダーの再生ボタンに、再び指がかかる。


──次の“声”を聴くために。


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