第7話 その声は、名を呼んでいた。

再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音が空気を震わせた。

「……マ、で……、起きて……」

聞き取れたのは、かすれた声の断片。その声は、以前と同じ少女のものだった。


だが――今回の録音には、名前が含まれていた。


「……マキ、ちゃん……起きて……お願い……」

録音はそこで止まり、巻き戻されたような音のあとに別の声が重なった。


「……目を閉じて……想って……わたしのこと……」

まるで、催眠術のような囁き。

その瞬間、彼の記憶の底に、何かがぶつかって弾けた。


“マキ”――どこかで聞いたことのある響きだった。

それが誰かの名前なのか、自分の記憶に関係があるのか、はっきりしない。

ただ胸の奥に、押し込められていた痛みのような感覚がじわりと浮かび上がる。


彼はテーブルの上に散らばったカセットを一つ手に取った。

ラベルには、鉛筆で「12月9日」とだけ書かれている。


彼は再び再生ボタンを押す。

「……今度こそ、きみが聞いてくれるって……信じてる……」

少女の声は、確信に満ちた響きに変わっていた。


「わたし、ずっと待ってたの……あの日の続きを……あなたが、思い出してくれるのを……」


言葉の端々に、幼さとは異なる執着が混じる。

それは、無垢な声が持つはずのない熱量だった。


――思い出してくれるのを。

その言葉が耳の奥で引っかかる。


彼は膝の上で拳を握る。

“マキ”という名、そして“あの日”。

何かが、自分の中で噛み合い始めている。


録音が終わると同時に、部屋の隅から「カチリ」と小さな音がした。

カーテンの奥、闇の裂け目から何かが覗いている気配。

静かに近づいて、そっと布をめくると――


――そこに、もう一台のカセットレコーダーが置かれていた。


真新しい本体、そして新品のテープ。

ラベルにはこう書かれている。


「この部屋のどこかに、あの日がいる。」


彼は、喉の奥が冷たくなるのを感じながら、それをゆっくりと手に取った。


彼女は声のしたほうへ向かって歩き出した。冷たい床に素足のまま音を立てながら、薄暗い廊下を抜けてゆく。空気は重く、どこか埃っぽいのに湿っている。


階段の途中で、壁の一部が剥がれているのを見つけた。そこから覗いたのは、黒く染まった木の柱と、誰かの手形。乾いたような黒、でも、爪が擦った跡のように生々しい。


「……誰?」


囁くような自分の声に、誰も答えない。けれど、空気の密度が変わった。重心が低くなるような、何かが――上から降ってくる。


ガタン。


階段の上の扉が、音を立てて開いた。反射的に顔を上げると、そこにいたのは――


「お母さん……?」


違う。似てるけれど、違う。目が、笑っていない。肌が、白すぎる。髪の毛が、濡れているように見える。


「帰ってきたのねぇ」


その女は笑っていた。涙のように流れた黒いものが頬に伝い、そのまま顎に滴る。


「わたし……ここ、嫌いなの」


「知ってるよ。だから、お前を呼んだの」


女の目が爛々と光る。その瞳の奥で、何かが蠢いていた。まるで、言葉にならない「音」が染み込んでくる。


「開けなさい。全部、思い出して」


「……やだ」


足が震えていた。けれど、階段の手すりを掴んで、彼女は後ろに下がった。


「帰らせてよ……お願いだから……!」


その瞬間、女の姿が一瞬で扉の前から消えた。


「……っ!」


背後から気配が迫る。振り返ると、階下の廊下が――伸びていた。明らかに、さっきまでなかった長さがそこにある。


床がうねり、壁が脈打っている。生きている。


「やっぱり……夢じゃない……」


そう思ったとき、自分の右手が何かを握っていることに気づいた。白い、布切れ。薄手のハンカチだった。


刺繍がしてある。かすれた文字。


《おかえり》


それは彼女の手によって、幼いころに縫われたはずの名前だった。だけど、もう一つ、見覚えのない文字が滲んでいる。


《おかえり》

《きえないで》


「誰……?」


問いかけたとき、彼女の目の前に、黒い影が降りてきた。床から生えるように、這い出るように。


声にならない声が耳を塞ぐように押し寄せる。


「だめ……戻れない……」


でもそのとき、背後から手が伸びた。


誰かの、温かい手だった。


「帰ろう」


確かに、そう聞こえた。温もりが、あった。


そして彼女の視界は、再び白く塗り潰されていった――。


その手が、指先で床をかき、まるで何かを探しているように見えた。


女は叫ばなかった。ただ、動けずにいた。

白い手は、やがて彼女の足元に辿り着くと、ぴたりと動きを止めた。

まるで、目的のものに触れたかのように。


「……嘘……でしょ……」


小さな声が漏れた瞬間、その手がするりと消えた。

まるで霧が晴れるように、床に溶けるように。

何もなかったかのように、部屋は再び静寂に包まれる。


しかし、女の耳には、微かに音が残っていた。

「シャリ……シャリ……」と、あのオープンリールに巻かれたテープが回る音が。


視線を向けると、止まっていたはずのリールが、勝手に動いていた。


――巻き戻し、されている。


目の前で、誰の手も触れていないのに、テープは逆回転し、シュルシュルと音を立てて過去へ戻っていく。


次の瞬間、スピーカーから、あの日の音が再生された。


「やめて……もうやめて……!」


それは、紛れもなく彼女自身の声。だが、記憶にない。

涙混じりの、恐怖に震えた叫び声。


まるで、忘れていたはずの過去が、機械を通じて蘇ったかのように。


女は、口元を手で押さえた。思い出してはいけない。けれど――


そこには、もう一つの“自分”がいた。

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