第6話 耳鳴りの証明

右耳が聞こえない。

 目が覚めた瞬間、それを認識した。何かが変わっている。左耳には空調の微かな音や足音の気配が届くのに、右側には音がまったく存在しない。まるで鼓膜の裏側に何かが貼りつき、すべてを遮断しているようだった。けれどそれは静寂ではなく、“無音”だった。音がないことを知覚するほどに、右耳の奥が熱を帯びてうずいていた。


 私はゆっくりと身体を起こす。見覚えのある教室。だが椅子の脚がすべて左に少し傾いている。机の天板も水平でない。まるで、建物全体が微かに傾斜しているようだった。視線を動かすたび、右耳の奥に砂利のような違和感が走る。ひとつ呼吸をしてみる。吸った空気が右の鼻腔で途切れ、まるで世界の半分を失ったように感じた。


 教卓の上に、見慣れない機械が置かれていた。形はICレコーダーに似ているが、中央にカセットのような開閉式の小窓があり、内部には茶色いテープが収まっていた。私はそれを手に取り、無意識のうちに再生ボタンを押していた。


 音は流れなかった。少なくとも、左耳には何も届かない。けれど右耳の奥が震えた。誰かが語りかけてくる。声は音ではなく、触覚に近い。粘膜にこびりついた湿った舌のような言葉。耳の内側をなぞるように、声が、届く。


「ここではない、どこかへ移動した記録が残っている。あれは“記録”ではなく“記憶”だ。記憶は記録に先行する。忘れるよりも前に、録られてしまう」


 私は顔をしかめ、ICレコーダーを机に戻した。だが再生は止まらない。テープはシュルシュルと細く巻き取られていく。声はまだ右耳の内側で囁いている。


「君はまだ返していない。あの鍵は、返却されていない。だから、04が終わらない」


 そこで初めて気づく。私のポケットには、まだ鍵束がある。04と刻まれた金属片の輪郭が、布越しにもはっきりとわかるほどに、熱を持っていた。


 私は立ち上がり、教室を見渡した。教卓の引き出しが少しだけ開いている。覗き込むと、中にもう一つ、同じ形のICレコーダーが入っていた。ただし、側面に「記録 04-A」と手書きのラベルが貼られている。それを手に取った瞬間、空気が変わった。左耳がふっと軽くなり、代わりに右耳が沈黙する。切り替わる。世界が、再生ヘッドをまたいで切り替わっている。


 私はそのまま廊下へ出た。窓際には誰もいない。けれど足元に、見覚えのない影が落ちていた。私の影の横に、わずかに遅れて追従する別の影。足音は一つしかないのに、影は二つ。私は歩くたびに、自分の動きが録音されているような奇妙な感覚に襲われた。


 廊下の突き当たりに、扉のない部屋があった。そこには黒板も机もなく、ただ、空間があった。入った瞬間、耳鳴りが止まった。右耳が、完全に無になった。だがその直後、言葉が落ちてきた。


「再生中、記録04……再生中、記録04……再……せ……い……」


 それは誰かの声ではなく、空間そのものが話していた。音は存在せず、ただ空気の密度だけが言語を運んでいる。皮膚がそれを受け取る。掌の中のレコーダーが震え、再生中のテープが裏返った。音が逆に流れていく。


 音の流れが変わった瞬間、視界の色が反転した。黒板のあった場所に窓があり、廊下が天井から伸びている。さっきまでいた教室が、ここにあるはずのない角度で重なってくる。私はもはや、どちらの空間にいるのか判断できなくなっていた。


 影が、しゃがんでいた。私と同じ制服、私と同じ髪型、けれど顔は見えない。しゃがんだ影は、床の埃を指先でなぞっていた。指が描いた文字は、“記録∞”。その下に、鍵が置かれていた。私が持っていた鍵と、同じもの。


 私は影に近づいた。だが、影は動かない。その形はテープに焼き付いた像のように、定着していた。触れようとした瞬間、再び耳鳴りが始まった。今度は左耳にだけ。右は沈黙を守ったまま、左だけが高音を放つ。


 私は鍵を拾い、レコーダーの再生を止めた。だが、音は止まらなかった。耳の内側で、別の声が始まっていた。


「まだ、返してないよね?」


 私は振り返った。そこには誰もいなかった。ただ、音だけが、音の形を持たないまま残っていた。


私は鍵を拾い、レコーダーの再生を止めた。だが、音は止まらなかった。耳の内側で、別の声が始まっていた。


「まだ、返してないよね?」


 私は振り返った。そこには誰もいなかった。ただ、音だけが、音の形を持たないまま残っていた。


 しんとした空間に、何かが潜んでいる。音でも気配でもない、ただ“そこにある”という確信。私は鍵を握ったまま、呼吸を整えようとした。だが、肺がすぐには膨らまない。空気がどこかで引っかかっている。吐く音だけが先に漏れ、それを追うように鼓動が打った。


 耳の奥に、また声が落ちた。今度は、名前を呼ぶ声だった。確かに私の名前を──けれど、声の主が誰かはわからなかった。思い出そうとするたび、声の輪郭が“∞”の記号のようにねじれ、終点を逃れた。


 教室へ戻る道がわからなくなっていた。私は今、どこに立っているのか。音がないせいで、足音も、壁のきしみも聞こえない。すべてが均質で、方角がなくなっていく。壁を手探りでなぞると、掌が記憶していない感触を拾った。木でもコンクリートでもない、ぬめりを帯びた冷たい質感。触れた瞬間、心臓の音が跳ねた。


 次の瞬間、壁がわずかに沈んだ。その内側から、何かの気配が反射してくる。私は思わず一歩退いた。足元の影がゆっくりと揺れ、別の影がそこへ重なろうとした。もう一つの“私”が、音もなく近づいてくる。表情は見えない。だが、その動きは私の動きと一拍遅れで一致していた。


 鍵が、重くなる。金属の冷たさが、じわじわと掌に沈んでいく。まるで私の体温を吸っているようだった。私は鍵を見下ろし、ふと思った。もしこれを返したら──本当に、終わるのだろうか? それとも、始まるのだろうか?


 レコーダーはもう動いていない。だが、内部のテープだけが、わずかに回転していた。音は再生されない。けれど、記録は続いている。誰の記録なのか、誰に見せるためのものなのか、それだけが最後まで不明のまま、静かに、巻かれていく。



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