第5話 鍵の間合い

鍵束の拍が、また胸を揺らした。こつ、こつ、こつ──三度目の響きが終わる前に、私は教室の扉へ向かって歩き出していた。

 足音が、床の木目に吸い込まれていく。廊下の先は、昼とも夜とも言えない色をしていた。蛍光灯の白が薄く漂い、窓の反射は雲の腹のように重たい灰。壁の時計は止まっていない。針は動いているはずなのに、音がない。針の先端だけが薄く揺れ、時刻は定まらない。

 私は息を吸い、吐き、もう一度吸った。湿度はさらに増している。呼吸のたびに、喉がわずかに膨らむ。空気の重さが舌の奥に積もり、言葉を作らせない。耳の奥では、低い耳鳴りが輪のように広がり、すぐ縮む。汗は出ないのに、手のひらだけが冷え、鍵束の金属に皮膚が張りついた。


 廊下の右手に、開け放たれた準備室があった。中には棚があり、棚の奥行きが異様に長い。ラベルの退色した薬瓶、紙箱、巻き尺。左右の壁が棚板と平行に沈んでいき、目を凝らすと、その奥にまた扉が見えた。扉は半開きで、内側に淡い光が滲んでいる。光は白ではなく、水の底で砕けたような青を含んでいた。

 私は鍵束を見下ろす。金属の歯はどれも同じに見えたが、一本だけ、先端がかすかに濡れていた。握った瞬間、その鍵の拍が他より速くなる。拍と一緒に脈が指先を登り、肘の内側で跳ね、鎖骨の下に沈む。


 踏み出すと、足音が反響しなかった。代わりに、背中のあたりで同じ音が遅れて鳴った。振り返っても誰もいない。けれど、その遅れた足音は、私の歩幅に合わせて続いてくる。足音の厚みだけが少しずつ増え、床板の目が一段深く沈む。私の影は伸びず、代わりに廊下の奥が私へ寄ってきた。


 半開きの扉を押すと、部屋の中はほとんど真っ暗だった。光源は中央の机の上の、古いカセットデッキだけ。再生ボタンが押されていて、巻き取りリールがゆっくりと回っている。スピーカーから音は出ない。けれど回転の度に、空気のどこかが震えて、背骨をなぞるように冷たくなる。焼けたゴムの匂いと、古い磁気テープの鉄の匂いが、舌の裏に薄く残った。

 机の端にはノートが開かれていた。罫線の上に、鉛筆でびっしりと書かれた数字の列。0と4が交互に続くページの途中に、ひとつだけ∞が混じっていた。視線を戻したときには、∞は消えて04に変わっている。次に目を離すと、数字の粒が紙面から少し浮き上がって見え、浮いた粒は粉になって、ゆっくり上気流に飲み込まれていった。

 私はノートを閉じようとしたが、指先が紙から離れない。離そうとしても、指の皮膚が紙に貼りついたように動かない。紙は乾いているのに、触れた皮膚だけ湿る。指紋の溝が鉛筆の線をなぞり、黒い色を少し連れてくる。


 その時、カセットデッキの回転が止まった。静止したリールの透明部分に、私の顔が映っている。けれどその口は、勝手に動いていた。

 「間に合わない」

 声は、機械からも私からも出ていない。それでも空間全体がその言葉を覚えているように、響きを失わない。言葉の形だけが空気を押し、机の角、椅子の背、壁の釘穴に均等に挿し込まれていく。


 机の横にもう一つ、細長い木箱があった。蓋を開けると、中には無数のSDカードが詰まっていた。それぞれに白いマーカーで数字が書かれている。03、04、04、04……同じ数字が何度も現れる。中には何も書かれていない黒いカードも混ざっていた。手に取ると、金属端子が冷たいはずなのに、掌の温度を奪わない。耳の近くへ寄せると、聴こえないはずの微かな拍が、皮膚の下だけで鳴った。

 廊下から、さっきの遅れた足音が近づいてきた。私はカードをポケットに押し込み、鍵束を強く握った。冷たい歯が掌に跡をつけ、拍動が速くなる。


 次の瞬間、部屋の奥の壁が、まるで呼吸するように膨らんだ。壁紙が波打ち、その奥にまた廊下が見えた。そこは逆さの廊下で、天井に机と椅子がぶら下がっている。天井の蛍光灯は足元のように低く、光が靴の裏から滲む。床のはずの天井に落ちた埃は、少し考えてから、上へ昇った。


 足を踏み入れると、重力の向きが一瞬わからなくなった。感覚が戻る頃には、私は逆さの教室に立っていた。机の下に立っているはずなのに、視界の机は天井に吸いついている。そこから、濡れた指跡がまた四つ、ゆっくりと垂れた。指跡は落ちない。垂れた痕が途中で止まり、空中に細い黒い筋だけを残す。筋の先端から冷気が降り、首の後ろを冷たく撫でた。

 鍵束が拍を刻む。こつ、こつ、こつ──それはもはや私の心臓よりも確かな律動だった。拍は耳鳴りと同期し、黒板の粉の微粒子に波紋を作る。


 黒板にまた「04」。だが、その数字は粉のように崩れ、∞に変わった。粉は空中に漂い、上ではなく四方へ散っていく。その一粒一粒が、どこかで見た顔の断片になって消えた。チョークのにおいは薄いのに、記憶だけが濃くなる。私は顔の断片に見覚えがある気がしたが、思い出そうとするたび、∞の輪が脳の奥で絡まり、考えを別の方向へずらした。


 私の足元に、長い影が落ちた。遅れてきた足音の主が、やっと私の隣に立った。視界の端で、その影が鍵束を覗き込み、ゆっくりと笑った。笑いは音にならず、私の頬の内側にだけ触れた。

「返す時が来た」

 その声に合わせて、鍵束の拍が止まった。止まったのに、止まっていない。金属の中でだけ、別の拍が続く。私は思わず握りを強め、鍵の歯が掌の皮膚を薄く切った。しみる痛みが現実だと告げる。しかし現実の位置は、また少しずれた。


 静止した時間の隙間に、遠くの廊下が割り込んでくる。扉の窓に映る廊下は、こちらの廊下と似ているのに、掲示物の色が一段暗い。窓枠の木目に細い筋が走り、その筋が鍵穴の形に集まっていく。どこにも鍵穴はないはずなのに、視線を向けると、そこだけ鍵を差し込みたくなるような、くぼみの手触りが現れた。


その静寂は、次の拍を待つように息を潜めていた。


 


 

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